めいそうえっせい

色々と心のままに

デモンズソウルと井上尚弥

デモンズソウルという元祖死にゲーのPS5版を始めてしまった

 

この歳でゲームかと言われそうだが、年寄りには麻雀などと同じく、頭と指先を使うので悪くないそうだ

 

実は以前、PS3でやって最後のボスに勝てずにそのままにしていた悔しい思いもあった

 

あれから、 ダークソウル、エンデンリング、ブラッドボーンなど死にゲーをこなしてきたせいか、久しぶりのデモンズソウルが驚くほどヌルゲーに思える

 

これが成長か!とひとり悦にいる

 

早い話、敵の動きがよく見え、落ち着いて対処できるようになっているのだ

 

要はバランスが大事

 

攻撃にばかり偏ると、自分の体力やスタミナ不足に気づかずやられるし、かと言って防御だけでももちろん勝てない

 

僕はボクシングも好きなのだけれど、とんでもなく強いパンチを持っていても勝てないボクサーはいる

 

井上尚弥はパワーに目が行きがちだけども、よくよく考えるとバランスがとてつもない

 

無闇に闘わず、間合い、相手のパンチ力、スピード、モーションの癖などをまずきっちりと見抜く

 

しかも早い段階で

 

チャンスとみたら多少の被弾を恐れず一気に畳み掛ける

 

ただしかしその攻撃している最中でも、頭は冷静で、相手の反撃や弱り具合、さらには自分の

スタミナなどを計算に入れている

 

まるで死にゲーの闘いかたである

 

井上尚弥は勝つべくして勝っている

 

この能力をどうやって彼は得たのだろう

 

弟と比べるとやはり天性のものかとも思えるのだが

 

ここまで書いてきたがゲームと比べるのは甚だ失礼と気づいた

 

すいません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミツバチのささやき

瞳を閉じてに続いて、ビクトルエリス監督のデビュー作である「ミツバチのささやき」をアマゾンで見た

 

通常画質版でも2000円したので高いなあとは思ったがどうしても見てみたかった

 

1940年頃のスペイン内戦後あたりの時代を描いているとのこと

 

内戦で荒廃した村の家族

 

ミツバチの養蜂に取り組む旦那と、誰かわからない人に手紙を出す妻、そして二人の幼い娘

 

夫はいつも自分の書斎でミツバチに関する手記を書きながら寝入ってしまう

 

妻とは上手く行っていないのかと思わせる

 

後で知ったが妻は後妻とのことで、これは推測だが、内戦によって離れ離れになって生死もわからない元夫に宛てて手紙を認めていたのかもしれない

 

夫は妻より明らかに高齢のようだが、村の資産家らしい

 

ここから下の娘のアナの視点で物語が進んでいく

 

現代は「スペイン国の魂」

 

軍事政権への皮肉や批評が映像によって暗喩されている

 

アナは声を上げられない民衆の心の叫びを代弁しているようにも受け取れる

 

直截的な表現を避けて描く手法が見事である

 

エリセ監督の長編映画は三作だそうで、瞳を閉じては80歳になっての最新作であるが、そのテーマは「アイデンティティと記憶」だそうである

 

物事の始まりと終わりを意味する、青年と老人の二つの顔を前後に持つヤヌスの像がそれを象徴する

 

記憶を失くした俳優にアイデンティティはない

 

つまり自分というものがどこにもない

 

逆に言えば、人のアイデンティティは記憶によって成立している

 

人は生まれ、経験し、成長する過程で自我というアイデンティティを獲得するが、例えば記憶を失くしたり、高度の認知症になればそれを失う

 

ではその時、その人は一体どういう存在なのか

 

高齢になったエリセ監督が突きつける、あるいは見るものに問うているのは、人間の存在についての深い考察ではないだろうか

 

アイデンティティを失った人は生きている「価値」も失うのか

 

それとも???

 

宇宙の果てに何があるのかという疑問同様、人にとっての究極の問いではないだろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瞳を閉じてとお金本

つい先日、ビクトルエリせ監督作品「瞳を閉じて」を観た。

 

小説仲間に感化されたからだった。

 

3時間に及ぶ長い映画だった。

 

正直、僕にはよくわからず、退屈でその前の日にゴルフをしたせいもあって、何度か眠りそうになったほどである。

 

主人公は映画監督で、ずっと前に撮った映画の主人公が失踪しているのだが、あるテレビ番組がその失踪事件を追うという特集を組むという設定である。

 

サスペンスタッチで描かれていくため、どんな謎が隠されているのだろうと興味をそそられるが、結局は最後まで明かされない。というか、それが主題ではないとわかる。

 

非常に難解な映画だが評を読むとわかる人にはわかるらしい。

 

一つ一つのセリフやシーンに隠された意味を読み解く必要がありそうだが、僕にはどうしてもわからなかった。

 

でも不快ではなかった。若い頃読んだ詩集を思い出した。あの時も何を書いているのか全くわからなかった。あのような映画は意味を見出すより感じることが重要かもしれないと思ったのである。

 

監督と主役は若い頃従軍した兵士として友人関係にあった。恋愛のライバルでもあったかもしれない。

 

失踪した主役は修道院のような場所で見つかるが本人に記憶はない。なぜかいつも靴を脱いでしまい裸足である。主役の娘を引き合わせるが記憶は蘇らない。監督は、主役の演じた映画を見せることを思いつき、小さな映画館で関係者を招いて見せる。

 

じっと観ていた主役は最後に瞳を閉じる。

 

さて僕が感じたものは何か。とてもひと言では言い表せない。感動とか落胆でもない。ただ何かが心に残されたのだ。それは人生そのもののようなものかもしれない。人生が終わる時の総体のような何か。全ての感情や経験。

 

感じたのはあえて言えば「重さ」かもしれない。計り知れない「重さ」

そう、重かった。しかし昏くはなかった。

 

同じようについ最近、「お金本」という本を読んだ。作家たちのお金にまつわるエッセイや手紙などをただ並べただけの本だが、これが面白い。

 

金がないのに酒を飲む。友人知人に金を借りる。当然催促されるが、なんやかやと言い訳をして返さない。原稿料が入るが借金を返さずまた飲んでしまう。

 

一部の作家を除いてほとんどは金に困っていたことを窺わせるが、あっけらかんとしておおらかなものであり明るい時代を感じさせるのだ。

 

最近になく面白い本だと思って読み進めたが、最後の最後に嫌になった。

 

村上春樹の文章である。

 

彼は貧乏と貧乏人の定義を語っていた。

 

彼らの若い頃は貧乏だったが、人生の価値観は金になかったそうだ。

 

ところが最近は若い女性が平然と貧乏は嫌だと言うことに時代の移り変わりを見、近所のおっさんが汚い格好をして朝からメルセデスを後生大事に磨いていて、そんなおっさんこそ貧乏だと決めつけていた。

 

僕はこの文章を読んで不愉快になった。

 

金に対する価値観なぞくそくらえだ。過去の作家連中の誰一人としてそんなことを論じてはいない。ただ単に貧乏をして金がないことを淡々と書いているに過ぎない。なのにお前はどうだ。自分が成功者とばかり、金の価値観をバックに他人を貶めている。

 

以前にも書いたが、僕は村上春樹作品がいつの頃からか嫌いになった。

 

話題に釣られて読んできはしたが、あのまやかしのようなセックスと音楽だけのくだらない中身に気づくまでたくさんのお金を払わされた。

 

一生懸命買った車を嬉々として磨くおっさんのことをどうこう言う前に、お前の本に払った金を返せと僕は思ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投資3

でも僕にはそれほど時間がない

 

本来なら30年くらい欲しいが無理かもしれないし、その時生きていても資産は自分ではなく子供や孫に残すのが関の山である

 

よく言われることだが、心配性の日本人は常にため込んで使わない

 

僕にもその傾向がある

 

でも待てよ

 

80歳を過ぎて美味しいものも大して食えず、行きたいところもなくなったり遊べなくなったらいくらお金を持っていたってどれほどの意味があるだろう

 

子供たちにはある程度残してやりたいが自分の人生である

 

自分が楽しめなくては意味がない

 

そう考えるとどうだろう、75歳くらいまでが一つのメルクマールじゃなかろうか

 

あと10年である

 

10年しかない・・か、10年もある・・か

 

僕の夢というか目標は70歳で理想の家に住むことにある

 

妥協したくないのだ

 

その先どうなるかは神のみぞ知るだが先のことを考えてもどうせ分からない

 

あと5年である

 

大きなリスクは取れないので知恵がいる

 

知恵は瞑想から得られる

 

お金を稼ぐことは悪いことじゃないし、投資も悪いことじゃない

 

人間の欲望も悪いことじゃない

 

楽しく生き、お金を儲け、自分のためだけじゃなく、社会や人のためにもなる生き方は可能だと僕は思う

 

投資をギャンブルにしない

 

今年は僕はこう思う

 

日本にとっての投資元年だと

 

ただ、欲を持つのはいいが、過ぎた欲はよろしくない

 

身の丈にあった冷静さが肝要だろう

 

腹八分目

 

今年は投資におけるビッグチャンスであるし、日本人はある方向性が決まると一斉に動き出す人種でもある

 

投資をギャンブルではなく、エネルギーに対するリターンであり、成長が当然であるという理解の下で皆が参加するなら素晴らしいことになる

 

果実を分け合えるからだ

 

自分だけが儲けよう、食べようとすれば、奪い合いになって結局は皆が損をする

 

皆で分かち合い成長しようという考えかたが大切である

 

そのような意味において「インデックス投資」が広く受け入れられることになったことは素晴らしい

 

もちろん個別銘柄投資が悪いわけではない

 

自分の会社とか成長性が期待できる会社や業界に投資すること、今で言えばAI関連とか半導体なのかもしれないが、そのような投資もいいだろう

 

ただ買い時と売り時がなかなか難しいだけである

 

基本的にインデックス投資は全体が上がれば同じように上がるわけで皆が勝つ投資システムである

 

ただ暴落すれば同じであって大きく下がることもある

 

しかしながら個別株であれば会社が潰れる可能性だってあるがインデックスは分散投資なのでそのリスクはない

 

いずれは戻ってくる

 

株の真理は上がれば下がり、下がれば上がるであって、時間をかければその繰り返しの中で徐々に上がっているということなのだ

 

つまりは成長しているのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投資2

もちろんそれまでには自社株や他にも何度か株を売買したことはある

 

数十万儲けたり少し損したりという一般サラリーマンレベルの話である

 

株は精神衛生上よくない

 

上がったら落ちる恐怖に駆られるし、下がったら見るのも嫌になる

 

小心者なのだろう(僕だけではないかもだが)

 

そこで目をつけたのが配当である

 

それまで配当なるものの存在は知ってはいても、例えば会社の持株会などは配当を全て再投資してしまうので現実感がなかったのだ

 

で、調べてみると、高配当株がある

 

例えばJT

 

当時で7%を超えていたと思う

 

20%の税金を払ってもネットで5%をゆうに超えている

 

これで株価が上がらないまでも下がらなければ不動産投資などより遥かに良い

 

なぜみんな買わないのだろうと思ったくらいである

 

8年前のあの頃でさえ、僕を含め株に対する考え方の根底にはギャンブル的な匂いを多くの人は感じていたのではなかろうか

 

いわゆる短期利益志向である

 

確かに株とか投資にはリスクがあるのでギャンブル性がないとは言えない

 

当時僕には投資リテラシーなるものが皆無だったので、投資=ギャンブル=高リスク=恐いという図式で理解していたのだが、ちょっとずつ勉強するに従って考え方が変わっていったのだ

 

人は働いてお金を得る

 

労働力とは労働する力、つまりエネルギーである

 

自分の持つエネルギーを投資してリターンを得ているわけだ

 

サラリーマンは賃金がある程度一定しているのでその意味を理解しにくい

 

つまりはリスクとリターンの意味を把握しにくいわけである

 

休んでも給料出るし、かといってとんでもなく頑張っても多少残業代が増えるくらいだし

 

まあそうやって僕も含めた世間の労働者たちは、資本家にていの良いように労働力を搾取されているのであるが(言い過ぎか)

 

投資するということはお金という力、つまりエネルギーを投資してリターンを得る行為に他ならない

 

大きなエネルギーをかければ大きなリターンが得られる

 

ただし大きなエネルギーには大きなリスクもある

 

サラリーマンで言えば、過労死するようなものか

 

ただ投資にはもう一つの側面がある

 

それは時間という側面である

 

世界経済は時間と共に成長するという一つの真理に根ざしている考え方だ

 

これは人口の増大とかとも多分関係している

 

日本は少子高齢化で人口減少国であるが世界人口は拡大を続けているし、アメリカも拡大している

 

100人の町が200人になれば、そこで商いされる額は単純に2倍になるという理屈

 

要は僕はこう考えた

 

株は時間を味方につけられればリスクは存在しないに等しいと

 

昔からよく言われる、買った株を何十年も放っておいたらとんでもないことになっていたってやつ

 

あれが株投資の基本のキである

 

ここには不動産と同じくロケーションの重要性がある

 

つまりはなんでも良いわけじゃないってこと

 

どの株を買うかはある程度の見極めが重要になる

 

駅近、買い物、学校、病院・・・不動産で重要なロケーションのポイントを株にも同じように当てはめなければならない

 

割安、独自性、将来性、歴史などなど

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投資1

株が高い

 

日経平均はとうとう4万円を突破した

 

僕が投資に興味を持ったのはあと数年で定年になる58歳の頃だったから今から6年ほど前になる

 

ある日ふと考えがよぎったのだ

 

老後ってどうなるのかと

 

すでに老後2000万円問題とか言われていた頃でもある

 

なのでまずざっくりと年金額を調べてみた

 

カミさんは専業主婦なので国民年金のみである

 

そこで判明したことは思いのほか少ないということだった

 

子どもたちは独立しているので教育費云々は必要ないが家のローンが残っている

 

しかも結構な額で

 

こりゃまずいかも

 

僕は定年後働くつもりはなかったので、他に何か収入を得る道を考えなくてはと思いたった

 

最初はワンルームマンション投資を考えた

 

理由は二つある

 

一つは、地方に買った中古の家を20年近く貸していた経験から、家賃はありがたいものだとの実感があったこと、もう一つは、ロケーションさえ間違わなければ東京ならリスクは低かろうとのことである

 

不動産はロケーションが全てであると昔ある不動産屋さんから聞いた

 

要は利便性が第一、次に環境である

 

駅近、買い物、学校、病院・・・

 

それなりに本などを読んで勉強もした

 

それまでは利回りとか全く頭になかったのが、投資の基本のキが身についた

 

いくつかの不動産屋を回り、物件も実際に見た

 

だが結局は手を出さなかった

 

あの時に買っていたとしたも多分問題はなかったし(今よりも安かっただろう)資産となっていた可能性は十分ある

 

しかし僕はこう考えた

 

モノは資産となればいいが不良債権になる可能性もある

 

例えば1500万円で中古ワンルームを買って、ローンを払いながら、しかもプラスを生み出そうとするとネットで5%程度の利回りは欲しいが、そんな物件はほとんどなく、あっても肝心のロケーションが悪い

 

そうなるといざという時に処分が効かない

 

しかも売買時の手数料など経費がバカにならない

 

もちろん買ってからの維持費もそう

 

固定資産税や修繕積立費などなど、色々とランニングコストがかかるのだ

 

ふむふむなかなか厳しいな

 

数億円とかで一棟マンションとかの方が逆にいいのだが、そんなお金もないし、銀行に借りてまでという度胸もない

 

何しろもうすぐ定年なのだから

 

僕はそこで初めて株に目をつけたのである

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の食とインフレから考える世の中

これほど美味しくバリエーションに富んだ食が可能な国ってあるだろうかと改めて思う

 

最近は色々と値上がりしてしまっていてそうそう簡単には手が出ないものもあるにはあるが

 

例えば町中華

 

僕は町中華が大好きで、ある店に週一程度には行くが、880円で食べられる肉野菜定食が絶品である

 

その店でたまに友人と昼飲みもするが、一人3000円程度で大満足する

 

寿司や焼き肉なんかもいいが、ずいぶんと値上がりしてしまって、簡単には行けなくなったのが残念ではある

 

魚介系のラーメンが好きでたまに行くが、こちらも1000円はくだらないので僕の感覚からすると随分高くなったなあと感じる

 

最近のインフレはコストプッシュ型というそうで、原材料費に光熱費、人件費が軒並み上がっていることからどうしようもないらしい

 

そもそもロシアがウクライナに侵攻し、小麦や石油だかの値段とか、輸送費が上がったことがきっかけだったような気がするのだが、そこからあれよあれよという間に、何もかもがどんどん上がってしまい、なんだかそれが当たり前のようになった

 

もちろん以前だって、銀座の久兵衛とか、どこどこのフランス料理とか、庶民では手が出ない店はあったけど、それは「贅沢」と呼ばれて一線を画していたと僕は思う

 

でも日本の食の良さって誰もがある程度のものを口にできるってことだったんじゃないの

 

町中華の定食が2千円したら行かないよ

 

そして店が潰れるよ

 

それでいいの

 

そういうことが実際に起き始めてるんじゃないの

 

いろんな考えはあるにしろ、例えば医療だって、日本には世界に冠たる国民皆保険制度があって、誰もがある一定水準以上の医療をどこでも受けられるという公平性が担保されているわけで、僕はそれを「医・食・住」と呼びたい

 

つまり医療だけじゃなくて、食も住も、ある一定以上のものは日本では誰でもが享受できる国であってほしいのである

 

住はすでに怪しくて、こちらもインフレのせいか、マンションなんかは異常な価格になってしまい、完全な「贅沢品」である

 

新築など問題外で中古だって築何十年の物件が何千万もする

 

頑張って購入して、ローン払って、その後何十年先にどうなるのかなんて誰もわからないって異常だよ

 

そもそも日本における不動産購入は庶民にしてみれば一生ものだけど、一生どころか二生も三生もいるくらいになってしまってる

 

これっておかしくないか

 

巷間、言われているようにこれが金融緩和、つまり低金利を続ける政策のせいだとするなら是正する必要があると思う

 

行き過ぎているのだから

 

失われた30年とかいって賃金が上がらすデフレとなった日本が悪かったように言われているが果たしてそうだろうか

 

欧米と比べているがでは欧米が正しいのか

 

経済成長が善だろうか

 

少なくとももっとゆっくりでいいんじゃないの

 

輸出企業だけがとんでもない利益を上げるような形はいずれどこかでダメになるって

 

中庸って言葉がある

 

人間にはバランスが大切

 

日本という国と日本人はそのあたりのワビサビが良くわかっているはず

 

半年に一回とかたまでいいから美味しい寿司が普通の庶民が食べられるようになって欲しいとつくづく思うよ