めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想修行の日々

大好きな白隠さんは数万点もの禅画などを遺したそうだ

 

様々ある白隠論というか批評家たちの言を読んでいると多少の違いは

あれど禅画に込められた白隠さんの思いについては共通しているようだ

 

ただ坐禅和讃については論評が分かれる

現在まで禅(臨済宗)では坐禅和讃が基本となっていると思っていたが

ある本によると白隠さんは若い頃に坐禅和讃を書いているのだがそれ以降

ほとんどそれに関しては触れていないとのことで白隠さんはそれほど

重要視してはいなかったとのこと

 

うーん

まあ今となっては分からないことだが

 

一つどうも確かなのは修行で得た(悟った)真理なるものを衆生に伝える

方法として禅画なる手段を取ったのではないかということ

 

なぜなら真理を得た白隠さんは法を説き衆生を済度することが自分の使命

と悟ったからであろう

これは前回も書いたイエスキリストと同様の思いではなかったか

 

自分みたいな凡人が・・・と思ってはいけないらしい

誰もがそのような境地に至れる・・らしい

 

いま創作活動に熱意を持って取り組んでいるのだがそのテーマが

「選択と気づき」である

 

我々は日々大小なりとも様々な選択をしている

今晩何食うかに始まり何時に風呂に入るか、どのテレビ番組を見るか

等々枚挙にいとまがない

 

なぜそれを選択したのか

こちらを選択してあちらを選択しなかったのはなぜか

 

いま髭を伸ばしているのはなぜか

髪をカットにいかないのはなぜか

 

意識的か無意識かによらず選択するには選択する理由が存在する

 

いまこの隠れ家(あるいは隠居部屋)というのは非常に古い木造

アパートの2階にある

古い故か壁や床は薄く下や隣の物音はまる聞こえである

 

特に窓を隔てて似たようなアパートがありそこには若者が住んでいる

窓と窓が思いの外近い

 

先日その若者の笑い声が特段大きく聞こえてきた

テレビか何かを見るだか聞くだかしてどうもイヤホンをつけて

いるようなのだが何分かおきに甲高い笑い声が響く

 

ちょうどその時自分は苛立っていた

なぜかは忘れた(ここが瞑想のいいところ)

 

初めのうちはそのような雑音?も我慢できたが

だんだんイラついてきた

心のどこかでは

まあ、しょうがないだろう、そのうち収まるさ

みたいな思いもあったのだが

 

そのうちそれがわざと?やっているのではないかみたいな

思いも湧いてきて我慢できなくなってきた

 

そしてそちらの窓をピシャン!と閉めた

すぐ後悔の念が沸き起こった

せめて静かに閉めるべきだったと

 

その後のある日その若者の部屋に友達が遊びに来たのだろう

楽しげな声が聞こえてくる

時には素っ頓狂な笑い声や歌う?ような奇声も聞こえる

 

何しろウルサイ

 

でもその時はなぜか許せる自分がいた

許す(エラそうだが)ことを選択したのだ

彼らは楽しいのだな、若い時はそういうこともあるだろう

周囲を気にしないで楽しむことができるのだなあ

という見方になった

 

そして一番近い窓だけそっと閉めた

 

そのことが自分の気づきになった

ある事象に対しどういう見方をするか、そしてその見方から

どういう行動の選択をするか

 

瞑想が上手く?いって気持ちのいい日にはそのような前向きな

選択がしやすい

一方、何らかの要因、例えば寝不足だったり、飲み過ぎだったり

瞑想が上手くいってなかったり、女房と言い争いをした後だったり

数え上げればキリがないが要するに気分があまりよろしくない時

などは後悔してしまうような選択をしてしまうことが多い

 

こんなことを繰り返してきた自分だがようやく気づいたことが

瞑想自体の良し悪しや自分の気分の上下によらず、意識的に

選択できることが大切ではないかということ

 

もしかするとそれが平常心への第一歩かもしれないと

 

まだまだ始まったばかりだな