めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想修行の日々

いよいよ来週から瞑想の理論的側面を学ぶことになる

 

瞑想自体は心を扱うので理論とか科学とは無縁と思いがちである

ただ無心で実践あるのみ的なものと自分も思っていた

 

自分は瞑想教師を目指しているので(もちろん自分の瞑想による修行を重ねながら)

もし実現した暁にはやはり瞑想を始める方にはそれなりの理解をしてもらった

方が良いと思うし、それをきちんと系統だった理論や科学の視点から説明する

ことが現代の状況にはマッチすると思う

 

そんなことを考えていたらあるネットの記事に目が止まった

奈良の吉野で1000日回峰行を成し遂げた大阿闍梨である慈眼寺の塩沼住職

のお話である

 

テレビで何かの特集で見たことはあった

記事は講演内容をまとめたもののようで行に入ってからの苦闘が生々しく

描かれている

どんな言葉より説得力がある

それほどとんでもない偉業だと思う

何しろ1300年間で達成者が僅か2人だという

 

今朝からずっとあることが頭にあった

それは瞑想を行なっている時だけでなく、日頃の自分が大切であるということ

なぜかその思いが沸き起こってきていた

詰まるところどんなに瞑想体験が深くても神秘的な体験があったとしても

日常生活つまり実際の人生においてそれを生きられなければ何の意味もない

のではないかと

 

それは映画に感動するようなもので、素晴らしい主人公の成長を見て共感する

のだが映画館を一歩出てしまえば何も変わらないみたいな

 

瞑想が実践的修行であればそれは日常に生かされねばならない

そう思えたのがもしかすると瞑想修行の一つの成果なのかもしれないが

 

そしていつものように隠居部屋に来る前にドトールによってアメリカンコーヒー

を飲んでスマホでネットを見ていたら大阿闍梨の記事にぶつかったわけだ

 

この世に偶然はなく全ては必然である

自分の見るもの経験するものは事前に全て自分が選んでいる

 

大阿闍梨も恐ろしいまでの苦行で得たものは感謝であると述べておられる

意に沿わない人や物事に対してさえも感謝ができる

こんにちはという挨拶、ありがとうの言葉、はいという返事

どれもそこに込められた思い一つで何かが変わる

 

一歩ずつ進もう