めいそうえっせい

色々と心のままに

欲望のパラドックス 2

お金は欲望と繋がりが強い

 

今こそお金への希求が叫ばれる時代はかつてなかったのでなかろうか

 

自由主義経済という名の下に、資本家が大きな富を蓄える

 

富の行き過ぎた偏在は社会をねじれさせる

 

持たざるものの不満のマグマは膨張の一途である

 

お金はパワーであり、エネルギーだと思う

 

原子力と同じで使い方次第で大きく変化するものでもある

 

例えばビルゲイツなどの資産家が慈善家の一面を見せるのは、その力の意味を理解しているからではなかろうか

 

娘がテレビの宣伝を見て何億円とかの宝くじに当たったらいいなと呟いたことがある

 

お金が欲しいのになかなか手に入れられない人と、簡単に大きなお金が持てる人との違いはなんだろう

 

お金への欲望の強さだろうか、あるいは実現への具体的手段の有無だろうか、はたまた持って生まれた運か、それともその全てか

 

お金持ちになりたくてなった人と結果的になってしまった人やお金持ちになろうと必死に努力しながらも全く実りのない人との違いはなんだろうか

 

プロセスごとに分けてみよう

 

欲望の段階、思考の段階、行動の段階、結果の段階である

 

お金が欲しい(欲望)から、どうやってお金を得よう(思考)となり、具体的に動き(行動)、最終的に成果となる(結果)

 

このプロセスに関連するパラメータは、まず願望の程度の強さが第一だろう

 

どのほどの願望を抱くか

 

100万円が欲しいのか、100億円が欲しいのか、あるいは単に漠然としてお金持ちになりたいと思っているだけなのかでやはり違うような気がする

 

自分も含めて多くの人は100億円を本気で得ようとは思っていない気がする

 

そんな人、つまりとんでもない額のお金が欲しくてそれを実現した人というのはこの世界にどれほどいるものだろう

 

というのも、どちらかといえば結果的にとんでもないお金を手にしてしまったという人の方が実際に多いのではないかと思うのだ

 

世界的富豪であるジェフベゾスやイーロンマスク、日本では孫正義柳井正などビジネスで成功した人々は、後者に近いのではなかろうか

 

例えば大谷翔平なんかもそう

 

大きな夢の実現が大きなお金をもたらしたというのが多分正解だろう

 

ではお金そのものを目的とした場合はどうだろう

 

100億円が欲しい、そのためにどうするか、何をするか、そして行動へ

 

お金はエネルギーであり、大きなエネルギーは原子力と同じ性質を持つ

 

お金も原子力も単なるエネルギーであるから、どう使うかによって結果は大きく異なる

 

この世界にはエネルギー保存の法則がある

 

大きなエネルギーを獲得しようとすればその対価が必要となる

 

ゼロから100億円というエネルギーを得ようとするなら、それに見合うだけのエネルギーを放出せねばならないのだ

 

前回、僕は隣家との視線が気になるからソヨゴを植えたが、肝心の空間が埋まらず、その目的を忘れた頃になって願望が叶ったと書いた

 

もし願望が強いものであれば、例えばお金をかけてでも、ソヨゴを植え直すとか、他の木にするとか、いくらでも方法はあったが僕はそうしなかった

 

つまりは願望に見合うだけのエネルギーを放出しなかった

 

ところが僕の願望はエネルギーを失ったせいで叶ったのである

 

これこそが欲望のパラドックスである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

欲望のパラドックス 1

欲するものを簡単に手に入れられる場合とそうでない場合がある

 

猫の額ほどの庭に、ソヨゴが雌雄で立っている

 

常緑で葉が風にたなびく感じが好きなのと、居間の窓から隣家の視線が気になるので目隠しにもなるしと思い植栽したものである

 

ところが肝心の視線の部分が遮られないのだ

 

そこだけ葉が埋まらずポッカリと空いている

 

最初のうちは成長すればと思っていたが何年経っても一向に空いている

 

理由は雌木にある

 

雄の成長に比べて、雌が弱々しい

 

植木屋さんに聞くと、元々が弱い木だったのだろうという見解である

 

隣の雄に養分を持っていかれているのかもしれない

 

植えた時は同じくらいの背格好だったのにすでに雄は倍くらいになっている

 

色々手を尽くしてみたがあんまり変わらない

 

なんとかしたいと思いながら時間が経った

 

ところがそのうちに隣家の視線が気にならなくなった

 

理由はわからない

 

慣れたのか、それともまあいいやって諦めたものか

 

すると不思議なことにその空間が葉っぱで埋まり始めた

 

期待していた雌ではなく雄の葉で

 

偶然といえばそれまでだが、僕は必然主義者(大げさだが)なので、そこに意味を読み取ろうとする

 

埋まって欲しいと願っているときには埋まらず、もういいやと思ってから埋まる

 

これぞ欲望のパラドックスではなかろうか

 

よくよく考えるとこんなケースは多い

 

欲求の強さが実現を阻むのである

 

しかし強くないと実現しないのもまた現実でもある

 

欲望そのものに起因するものか、はたまた実現する力によるものか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デモンズソウルと井上尚弥

デモンズソウルという元祖死にゲーのPS5版を始めてしまった

 

この歳でゲームかと言われそうだが、年寄りには麻雀などと同じく、頭と指先を使うので悪くないそうだ

 

実は以前、PS3でやって最後のボスに勝てずにそのままにしていた悔しい思いもあった

 

あれから、 ダークソウル、エンデンリング、ブラッドボーンなど死にゲーをこなしてきたせいか、久しぶりのデモンズソウルが驚くほどヌルゲーに思える

 

これが成長か!とひとり悦にいる

 

早い話、敵の動きがよく見え、落ち着いて対処できるようになっているのだ

 

要はバランスが大事

 

攻撃にばかり偏ると、自分の体力やスタミナ不足に気づかずやられるし、かと言って防御だけでももちろん勝てない

 

僕はボクシングも好きなのだけれど、とんでもなく強いパンチを持っていても勝てないボクサーはいる

 

井上尚弥はパワーに目が行きがちだけども、よくよく考えるとバランスがとてつもない

 

無闇に闘わず、間合い、相手のパンチ力、スピード、モーションの癖などをまずきっちりと見抜く

 

しかも早い段階で

 

チャンスとみたら多少の被弾を恐れず一気に畳み掛ける

 

ただしかしその攻撃している最中でも、頭は冷静で、相手の反撃や弱り具合、さらには自分の

スタミナなどを計算に入れている

 

まるで死にゲーの闘いかたである

 

井上尚弥は勝つべくして勝っている

 

この能力をどうやって彼は得たのだろう

 

弟と比べるとやはり天性のものかとも思えるのだが

 

ここまで書いてきたがゲームと比べるのは甚だ失礼と気づいた

 

すいません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミツバチのささやき

瞳を閉じてに続いて、ビクトルエリス監督のデビュー作である「ミツバチのささやき」をアマゾンで見た

 

通常画質版でも2000円したので高いなあとは思ったがどうしても見てみたかった

 

1940年頃のスペイン内戦後あたりの時代を描いているとのこと

 

内戦で荒廃した村の家族

 

ミツバチの養蜂に取り組む旦那と、誰かわからない人に手紙を出す妻、そして二人の幼い娘

 

夫はいつも自分の書斎でミツバチに関する手記を書きながら寝入ってしまう

 

妻とは上手く行っていないのかと思わせる

 

後で知ったが妻は後妻とのことで、これは推測だが、内戦によって離れ離れになって生死もわからない元夫に宛てて手紙を認めていたのかもしれない

 

夫は妻より明らかに高齢のようだが、村の資産家らしい

 

ここから下の娘のアナの視点で物語が進んでいく

 

現代は「スペイン国の魂」

 

軍事政権への皮肉や批評が映像によって暗喩されている

 

アナは声を上げられない民衆の心の叫びを代弁しているようにも受け取れる

 

直截的な表現を避けて描く手法が見事である

 

エリセ監督の長編映画は三作だそうで、瞳を閉じては80歳になっての最新作であるが、そのテーマは「アイデンティティと記憶」だそうである

 

物事の始まりと終わりを意味する、青年と老人の二つの顔を前後に持つヤヌスの像がそれを象徴する

 

記憶を失くした俳優にアイデンティティはない

 

つまり自分というものがどこにもない

 

逆に言えば、人のアイデンティティは記憶によって成立している

 

人は生まれ、経験し、成長する過程で自我というアイデンティティを獲得するが、例えば記憶を失くしたり、高度の認知症になればそれを失う

 

ではその時、その人は一体どういう存在なのか

 

高齢になったエリセ監督が突きつける、あるいは見るものに問うているのは、人間の存在についての深い考察ではないだろうか

 

アイデンティティを失った人は生きている「価値」も失うのか

 

それとも???

 

宇宙の果てに何があるのかという疑問同様、人にとっての究極の問いではないだろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瞳を閉じてとお金本

つい先日、ビクトルエリせ監督作品「瞳を閉じて」を観た。

 

小説仲間に感化されたからだった。

 

3時間に及ぶ長い映画だった。

 

正直、僕にはよくわからず、退屈でその前の日にゴルフをしたせいもあって、何度か眠りそうになったほどである。

 

主人公は映画監督で、ずっと前に撮った映画の主人公が失踪しているのだが、あるテレビ番組がその失踪事件を追うという特集を組むという設定である。

 

サスペンスタッチで描かれていくため、どんな謎が隠されているのだろうと興味をそそられるが、結局は最後まで明かされない。というか、それが主題ではないとわかる。

 

非常に難解な映画だが評を読むとわかる人にはわかるらしい。

 

一つ一つのセリフやシーンに隠された意味を読み解く必要がありそうだが、僕にはどうしてもわからなかった。

 

でも不快ではなかった。若い頃読んだ詩集を思い出した。あの時も何を書いているのか全くわからなかった。あのような映画は意味を見出すより感じることが重要かもしれないと思ったのである。

 

監督と主役は若い頃従軍した兵士として友人関係にあった。恋愛のライバルでもあったかもしれない。

 

失踪した主役は修道院のような場所で見つかるが本人に記憶はない。なぜかいつも靴を脱いでしまい裸足である。主役の娘を引き合わせるが記憶は蘇らない。監督は、主役の演じた映画を見せることを思いつき、小さな映画館で関係者を招いて見せる。

 

じっと観ていた主役は最後に瞳を閉じる。

 

さて僕が感じたものは何か。とてもひと言では言い表せない。感動とか落胆でもない。ただ何かが心に残されたのだ。それは人生そのもののようなものかもしれない。人生が終わる時の総体のような何か。全ての感情や経験。

 

感じたのはあえて言えば「重さ」かもしれない。計り知れない「重さ」

そう、重かった。しかし昏くはなかった。

 

同じようについ最近、「お金本」という本を読んだ。作家たちのお金にまつわるエッセイや手紙などをただ並べただけの本だが、これが面白い。

 

金がないのに酒を飲む。友人知人に金を借りる。当然催促されるが、なんやかやと言い訳をして返さない。原稿料が入るが借金を返さずまた飲んでしまう。

 

一部の作家を除いてほとんどは金に困っていたことを窺わせるが、あっけらかんとしておおらかなものであり明るい時代を感じさせるのだ。

 

最近になく面白い本だと思って読み進めたが、最後の最後に嫌になった。

 

村上春樹の文章である。

 

彼は貧乏と貧乏人の定義を語っていた。

 

彼らの若い頃は貧乏だったが、人生の価値観は金になかったそうだ。

 

ところが最近は若い女性が平然と貧乏は嫌だと言うことに時代の移り変わりを見、近所のおっさんが汚い格好をして朝からメルセデスを後生大事に磨いていて、そんなおっさんこそ貧乏だと決めつけていた。

 

僕はこの文章を読んで不愉快になった。

 

金に対する価値観なぞくそくらえだ。過去の作家連中の誰一人としてそんなことを論じてはいない。ただ単に貧乏をして金がないことを淡々と書いているに過ぎない。なのにお前はどうだ。自分が成功者とばかり、金の価値観をバックに他人を貶めている。

 

以前にも書いたが、僕は村上春樹作品がいつの頃からか嫌いになった。

 

話題に釣られて読んできはしたが、あのまやかしのようなセックスと音楽だけのくだらない中身に気づくまでたくさんのお金を払わされた。

 

一生懸命買った車を嬉々として磨くおっさんのことをどうこう言う前に、お前の本に払った金を返せと僕は思ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投資3

でも僕にはそれほど時間がない

 

本来なら30年くらい欲しいが無理かもしれないし、その時生きていても資産は自分ではなく子供や孫に残すのが関の山である

 

よく言われることだが、心配性の日本人は常にため込んで使わない

 

僕にもその傾向がある

 

でも待てよ

 

80歳を過ぎて美味しいものも大して食えず、行きたいところもなくなったり遊べなくなったらいくらお金を持っていたってどれほどの意味があるだろう

 

子供たちにはある程度残してやりたいが自分の人生である

 

自分が楽しめなくては意味がない

 

そう考えるとどうだろう、75歳くらいまでが一つのメルクマールじゃなかろうか

 

あと10年である

 

10年しかない・・か、10年もある・・か

 

僕の夢というか目標は70歳で理想の家に住むことにある

 

妥協したくないのだ

 

その先どうなるかは神のみぞ知るだが先のことを考えてもどうせ分からない

 

あと5年である

 

大きなリスクは取れないので知恵がいる

 

知恵は瞑想から得られる

 

お金を稼ぐことは悪いことじゃないし、投資も悪いことじゃない

 

人間の欲望も悪いことじゃない

 

楽しく生き、お金を儲け、自分のためだけじゃなく、社会や人のためにもなる生き方は可能だと僕は思う

 

投資をギャンブルにしない

 

今年は僕はこう思う

 

日本にとっての投資元年だと

 

ただ、欲を持つのはいいが、過ぎた欲はよろしくない

 

身の丈にあった冷静さが肝要だろう

 

腹八分目

 

今年は投資におけるビッグチャンスであるし、日本人はある方向性が決まると一斉に動き出す人種でもある

 

投資をギャンブルではなく、エネルギーに対するリターンであり、成長が当然であるという理解の下で皆が参加するなら素晴らしいことになる

 

果実を分け合えるからだ

 

自分だけが儲けよう、食べようとすれば、奪い合いになって結局は皆が損をする

 

皆で分かち合い成長しようという考えかたが大切である

 

そのような意味において「インデックス投資」が広く受け入れられることになったことは素晴らしい

 

もちろん個別銘柄投資が悪いわけではない

 

自分の会社とか成長性が期待できる会社や業界に投資すること、今で言えばAI関連とか半導体なのかもしれないが、そのような投資もいいだろう

 

ただ買い時と売り時がなかなか難しいだけである

 

基本的にインデックス投資は全体が上がれば同じように上がるわけで皆が勝つ投資システムである

 

ただ暴落すれば同じであって大きく下がることもある

 

しかしながら個別株であれば会社が潰れる可能性だってあるがインデックスは分散投資なのでそのリスクはない

 

いずれは戻ってくる

 

株の真理は上がれば下がり、下がれば上がるであって、時間をかければその繰り返しの中で徐々に上がっているということなのだ

 

つまりは成長しているのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投資2

もちろんそれまでには自社株や他にも何度か株を売買したことはある

 

数十万儲けたり少し損したりという一般サラリーマンレベルの話である

 

株は精神衛生上よくない

 

上がったら落ちる恐怖に駆られるし、下がったら見るのも嫌になる

 

小心者なのだろう(僕だけではないかもだが)

 

そこで目をつけたのが配当である

 

それまで配当なるものの存在は知ってはいても、例えば会社の持株会などは配当を全て再投資してしまうので現実感がなかったのだ

 

で、調べてみると、高配当株がある

 

例えばJT

 

当時で7%を超えていたと思う

 

20%の税金を払ってもネットで5%をゆうに超えている

 

これで株価が上がらないまでも下がらなければ不動産投資などより遥かに良い

 

なぜみんな買わないのだろうと思ったくらいである

 

8年前のあの頃でさえ、僕を含め株に対する考え方の根底にはギャンブル的な匂いを多くの人は感じていたのではなかろうか

 

いわゆる短期利益志向である

 

確かに株とか投資にはリスクがあるのでギャンブル性がないとは言えない

 

当時僕には投資リテラシーなるものが皆無だったので、投資=ギャンブル=高リスク=恐いという図式で理解していたのだが、ちょっとずつ勉強するに従って考え方が変わっていったのだ

 

人は働いてお金を得る

 

労働力とは労働する力、つまりエネルギーである

 

自分の持つエネルギーを投資してリターンを得ているわけだ

 

サラリーマンは賃金がある程度一定しているのでその意味を理解しにくい

 

つまりはリスクとリターンの意味を把握しにくいわけである

 

休んでも給料出るし、かといってとんでもなく頑張っても多少残業代が増えるくらいだし

 

まあそうやって僕も含めた世間の労働者たちは、資本家にていの良いように労働力を搾取されているのであるが(言い過ぎか)

 

投資するということはお金という力、つまりエネルギーを投資してリターンを得る行為に他ならない

 

大きなエネルギーをかければ大きなリターンが得られる

 

ただし大きなエネルギーには大きなリスクもある

 

サラリーマンで言えば、過労死するようなものか

 

ただ投資にはもう一つの側面がある

 

それは時間という側面である

 

世界経済は時間と共に成長するという一つの真理に根ざしている考え方だ

 

これは人口の増大とかとも多分関係している

 

日本は少子高齢化で人口減少国であるが世界人口は拡大を続けているし、アメリカも拡大している

 

100人の町が200人になれば、そこで商いされる額は単純に2倍になるという理屈

 

要は僕はこう考えた

 

株は時間を味方につけられればリスクは存在しないに等しいと

 

昔からよく言われる、買った株を何十年も放っておいたらとんでもないことになっていたってやつ

 

あれが株投資の基本のキである

 

ここには不動産と同じくロケーションの重要性がある

 

つまりはなんでも良いわけじゃないってこと

 

どの株を買うかはある程度の見極めが重要になる

 

駅近、買い物、学校、病院・・・不動産で重要なロケーションのポイントを株にも同じように当てはめなければならない

 

割安、独自性、将来性、歴史などなど

 

続く