めいそうえっせい

色々と心のままに

投資1

株が高い

 

日経平均はとうとう4万円を突破した

 

僕が投資に興味を持ったのはあと数年で定年になる58歳の頃だったから今から6年ほど前になる

 

ある日ふと考えがよぎったのだ

 

老後ってどうなるのかと

 

すでに老後2000万円問題とか言われていた頃でもある

 

なのでまずざっくりと年金額を調べてみた

 

カミさんは専業主婦なので国民年金のみである

 

そこで判明したことは思いのほか少ないということだった

 

子どもたちは独立しているので教育費云々は必要ないが家のローンが残っている

 

しかも結構な額で

 

こりゃまずいかも

 

僕は定年後働くつもりはなかったので、他に何か収入を得る道を考えなくてはと思いたった

 

最初はワンルームマンション投資を考えた

 

理由は二つある

 

一つは、地方に買った中古の家を20年近く貸していた経験から、家賃はありがたいものだとの実感があったこと、もう一つは、ロケーションさえ間違わなければ東京ならリスクは低かろうとのことである

 

不動産はロケーションが全てであると昔ある不動産屋さんから聞いた

 

要は利便性が第一、次に環境である

 

駅近、買い物、学校、病院・・・

 

それなりに本などを読んで勉強もした

 

それまでは利回りとか全く頭になかったのが、投資の基本のキが身についた

 

いくつかの不動産屋を回り、物件も実際に見た

 

だが結局は手を出さなかった

 

あの時に買っていたとしたも多分問題はなかったし(今よりも安かっただろう)資産となっていた可能性は十分ある

 

しかし僕はこう考えた

 

モノは資産となればいいが不良債権になる可能性もある

 

例えば1500万円で中古ワンルームを買って、ローンを払いながら、しかもプラスを生み出そうとするとネットで5%程度の利回りは欲しいが、そんな物件はほとんどなく、あっても肝心のロケーションが悪い

 

そうなるといざという時に処分が効かない

 

しかも売買時の手数料など経費がバカにならない

 

もちろん買ってからの維持費もそう

 

固定資産税や修繕積立費などなど、色々とランニングコストがかかるのだ

 

ふむふむなかなか厳しいな

 

数億円とかで一棟マンションとかの方が逆にいいのだが、そんなお金もないし、銀行に借りてまでという度胸もない

 

何しろもうすぐ定年なのだから

 

僕はそこで初めて株に目をつけたのである

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の食とインフレから考える世の中

これほど美味しくバリエーションに富んだ食が可能な国ってあるだろうかと改めて思う

 

最近は色々と値上がりしてしまっていてそうそう簡単には手が出ないものもあるにはあるが

 

例えば町中華

 

僕は町中華が大好きで、ある店に週一程度には行くが、880円で食べられる肉野菜定食が絶品である

 

その店でたまに友人と昼飲みもするが、一人3000円程度で大満足する

 

寿司や焼き肉なんかもいいが、ずいぶんと値上がりしてしまって、簡単には行けなくなったのが残念ではある

 

魚介系のラーメンが好きでたまに行くが、こちらも1000円はくだらないので僕の感覚からすると随分高くなったなあと感じる

 

最近のインフレはコストプッシュ型というそうで、原材料費に光熱費、人件費が軒並み上がっていることからどうしようもないらしい

 

そもそもロシアがウクライナに侵攻し、小麦や石油だかの値段とか、輸送費が上がったことがきっかけだったような気がするのだが、そこからあれよあれよという間に、何もかもがどんどん上がってしまい、なんだかそれが当たり前のようになった

 

もちろん以前だって、銀座の久兵衛とか、どこどこのフランス料理とか、庶民では手が出ない店はあったけど、それは「贅沢」と呼ばれて一線を画していたと僕は思う

 

でも日本の食の良さって誰もがある程度のものを口にできるってことだったんじゃないの

 

町中華の定食が2千円したら行かないよ

 

そして店が潰れるよ

 

それでいいの

 

そういうことが実際に起き始めてるんじゃないの

 

いろんな考えはあるにしろ、例えば医療だって、日本には世界に冠たる国民皆保険制度があって、誰もがある一定水準以上の医療をどこでも受けられるという公平性が担保されているわけで、僕はそれを「医・食・住」と呼びたい

 

つまり医療だけじゃなくて、食も住も、ある一定以上のものは日本では誰でもが享受できる国であってほしいのである

 

住はすでに怪しくて、こちらもインフレのせいか、マンションなんかは異常な価格になってしまい、完全な「贅沢品」である

 

新築など問題外で中古だって築何十年の物件が何千万もする

 

頑張って購入して、ローン払って、その後何十年先にどうなるのかなんて誰もわからないって異常だよ

 

そもそも日本における不動産購入は庶民にしてみれば一生ものだけど、一生どころか二生も三生もいるくらいになってしまってる

 

これっておかしくないか

 

巷間、言われているようにこれが金融緩和、つまり低金利を続ける政策のせいだとするなら是正する必要があると思う

 

行き過ぎているのだから

 

失われた30年とかいって賃金が上がらすデフレとなった日本が悪かったように言われているが果たしてそうだろうか

 

欧米と比べているがでは欧米が正しいのか

 

経済成長が善だろうか

 

少なくとももっとゆっくりでいいんじゃないの

 

輸出企業だけがとんでもない利益を上げるような形はいずれどこかでダメになるって

 

中庸って言葉がある

 

人間にはバランスが大切

 

日本という国と日本人はそのあたりのワビサビが良くわかっているはず

 

半年に一回とかたまでいいから美味しい寿司が普通の庶民が食べられるようになって欲しいとつくづく思うよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思考に関する考察

思考とはえてして自分勝手なものである

 

しかもふらふらする

 

ふらふらするという意味は、一つにはあれやこれやと価値判断しながら彷徨うということであるし、もう一つは過去や現在や未来を行ったり来たりするということでもある

 

例えば投資を例にとってみよう

 

ある株を買おうかどうかと思考する

 

株などというものに絶対はないのでもちろん迷う

 

こうなったらああなったらと

 

同時に、過去にやった投資の体験を振り返ったり、損得がもたらす未来を想像したりもするわけだ

 

つまりはまだ起こり得ないことをさも起こるか、もしくは起こらないかを思考しているわけなのだ

 

一体僕は何をしているのだろう

 

実は何もしていなくてふらふらしているだけ

 

思考というものはある意味そんなものだろう

 

先日、家の壁の一部を塗ってもらった

 

経年劣化で汚れたり少し破損しているところがあってそれが気になっていたからである

 

二つの業者さんに見積もりを取ったら、一つはもう一つの半分である

 

見にきてくれたその安い方の業者さんは、地元に根ざした方だったのでそちらに決めた

 

ところが施工にあたって、僕の要望とは少々異なることが判明した

 

結論だけ言うと、僕は少々不安になったのである

 

安かろう、悪かろうになるのではと

 

なので色々と思考した

 

こうなったらどうしよう、嫌だなとか、今から断れるだろうかとか、でも他に頼んだらもっとお金がかかるなとか、、、

 

思考は勝手にやってきて僕の頭の中をぐるぐるとあっちへいきこっちへいきした

 

株と同じで堂々巡りだ

 

そんな時、ふと思考が違うステージに入った

 

僕は何も現れていない前から一体何をしてるんだろうと

 

あえて断っておきたいのだけれど、僕は自分を責めたのではない

 

表現することが難しいのだが、思考するのを放り投げて、どんなふうに何が現れようとも上手くいくと「知った」のである

 

うーん、難しいなあ

 

開き直ったってわけでもないし、ダメもとみたいに諦めたわけでもない

 

ただ上手くいくと「知った」のだ

 

予知能力でもない

 

あえて言えば、結果として上手くいってなくても上手くいったのだ

 

なので本当に上手くいった

 

この辺り本当に難しい

 

説明はもうやめよう

 

ただ僕は知ったのである

 

上手くいくと知ってさえすれば上手くいくことを

 

多分このコツは瞑想で身につけたのじゃなかろうか

 

ぽんとあの世界に放り投げておけばいいってことだから

 

もっと上手に説明できるようにしなければ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の政治と松本人志問題

日本の政治と松本人志問題はその権力構造と閉鎖性において近似する

 

異なるのは外圧の有無だけである

 

前者に外圧、つまり選挙がなく、後者には文春という外圧があった

 

政治において国民は選挙という手段で外圧を働かせうるが、変化をよしとしない高齢化社会と、ことなかれ主義で変革エネルギーの乏しい若者で構成される日本社会の現状では難しいかもしれない

 

一縷の希望は、自治体の首長である

 

彼らは前回述べたように、一国一城の主であって、比較されうる

 

もちろん閉鎖的な自治体もあって既存の権力構造や集票団体と密接なつながりを持っているために外圧が働かないところもある

 

しかしそれが少しずつ変化しているようにも思える

 

信念を持ってマツリゴトを行おうとする首長が増えているように思える

 

その人たちが新たなる日本のリーダーとして真っ当に、かつ穢れることなく大きく育って欲しいと願っている

 

一方の松本人志問題である

 

彼はお笑い界のトップに君臨する権力者である

 

ところが文春という外圧で休業を余儀なくされた

 

もしかすると性加害ではないと彼は言いたいのかもしれない

 

後輩芸人に合コンを設定させ、やってきた女性と飲んでたまたまそのような関係になった、つまりは合意のもとであると言いたいのかもしれない

 

百歩譲ってその主張を受け入れるとしよう

 

僕はこう思う

 

だとしても最低な人間だと

 

なぜならトップだから

 

日本の政治家が姑息にもあのような裏金問題を起こしながら、法的には問題がないと保身だけに必死になり、さらには見せかけだけの本部を立ち上げて逃げようとしていることと、松本人志のやっていることは同じ構図である

 

違うのは文春という外圧があって松本人志は逃げきれなかっただけである

 

そもそも、お笑い界のトップに君臨する人間が、大学生でもあるまいに、後輩芸人に合コンを設定させるということ自体があり得ない

 

もっと端的に言おう

 

遊ぶなら自分で遊べ

 

他人や後輩を巻き込むな

 

知名度も金もあるのだ

 

それをコソコソと後輩を使う仕組みを作ってやること自体がトップの所業ではないのだ

 

つまり彼は日本の政治トップと同じく、たまたまトップになれてしまっただけで、トップとしての人間力も資質も、さらにはトップとしての覚悟も何もなかったことを露呈してしまったのである

 

日本の政治トップは小心者ではないが、政治家に必要な基本的な資質が完全に欠落している

 

その資質とは先を見通す目とこういう国を作りたいという圧倒的な熱量に他ならない

 

どちらもない

 

この辺りが世襲の問題なのだと思わされる

 

一方、松本人志のお笑いセンスは高い

 

高いが、僕は松本人志という人間は相当な小心者ではないかと思っている

 

その理由は書かないが彼を見ていてよくそう思う

 

小心者ほど権力を握るとしがみつき権力に頼る

 

今回の事件はまさしくそれを証明したといえると僕は思う

 

ちなみに娘は松本人志のファンで、僕が少しでも彼のことを悪く言うと、機嫌を損ね、まっちゃんは何事もなかったように戻ってくると言った

 

ジャニーズ同様、これがファン心理というものかと思わされたが、もしかするとグルーミングという現象につながるのかもしれないとも思った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年頭におもう

なんだかんだと言いながらすでに1月も中旬になってしまったのである

 

今、東の小窓には、淡いブルーバックの空に綿菓子のような雲が流れている

 

静かで平和そのものである

 

ところが、こうしている今も世界では戦争があり、誰かが犠牲になっているし、日本では石川能登の大地震によって家族を失ったり、大変な思いで避難生活を余儀なくされている人々がいる

 

頭で分かっているが実感はない

 

経験をしていない自分には要するに他人ごとである

 

僕は僕自身と自分の周りのことにだけ注意が向いているのだ

 

こんな歳になってもそんな小さな視野の自分が嫌にならないでもない

 

それにしても日本の政治の劣化が著しい

 

政治家だけの責任には思えず、日本の構築してきたマツリゴトの仕組みそのものが機能しなくなっているように思える

 

もちろん仕組みは人間の作ったものなので、時代に合わせて柔軟に変えていければいいだけだが、日本人はどうにもその辺りが不得手である

 

一旦作ったものにしがみつくきらいがある

 

変えられないのである

 

ましてや高齢化社会になっていて、僕も含めて高齢者が増えるとその傾向はさらに高まるだろう

 

日本はずっとそう言われ続け、外圧でしか変わらないと言われてきたがその通りだと僕は思う

 

ジャニーズ問題も決め手は国連の人権理事会だった

 

日大は外圧が働かない閉鎖された環境のためにいまだに変われないでいてこれは日本の政治と似たような構図である

 

権力者が権力者に都合の良いようにできてしまう仕組みを変えられない

 

その根本的な理由は、不透明性にある

 

もっと端的にいうと、具体的に比べられないのである

 

分かりやすい例を挙げると、大谷翔平である

 

彼が一流であると認められるのは、成績に他ならない

 

打率が三割を超え、ホームラン王になり、投手として二桁勝利を挙げる

 

しかもこれだけではない

 

さまざまな客観的数字が分析され比較されている

 

そのほとんどで抜きん出た存在になっているのが一目瞭然なのだ

 

翻って、日本の政治はどうか

 

比較できる何かがあるか

 

彼らの優劣を判断する指標は何か

 

はっきり言って何もないのである

 

いや、実は中身を透明化すればいくらでもできるのだが、肝心の中身がブラックボックスになっている

 

それが彼らを守り続けている仕組みに他ならない

 

日大も同じ

 

日大の経営層の優劣を判断する指標があるかということ

 

物事を変化させるには見えなくてはならないのである

 

それがスタートラインになる

 

お笑い芸人の松本人志の性加害問題が文春に書かれたことがきっかけで休業に追い込まれた

 

まだ真実はわからない

 

わからないが、文春が外圧だったことは間違いない

 

今まで見えなかったものが見えたことで変化させられたのである

 

政治資金規正法問題も同じだが残念なことに抜本的な解決にはならずまた同じことに戻るだろう

 

外圧が働いていないからである

 

日本の政治に対する外圧とは何か

 

選挙である

 

国民の意思である

 

それを年頭に強く思う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バチの当たるスピード

バチが当たると言う言葉はすでに死語だろうか

 

よくいうZ世代にアンケートでもとってみればわかるだろうがまあそれはいいとして

 

バチが当たるというのは、難しくいえば因果応報である

 

悪いことをしたから悪いことが返ってくる

 

より深く考えてみればこの考え方は輪廻に通ずるものがある

 

人が生み出した影響がその人に戻ってくるので、何度も生まれ変わらねばならないという話である

 

つまり長い時間にわたってその影響が残るともいえる

 

ずっと瞑想を続けてきた経験でいうと、バチの当たるスピードに違いがあることを知っている

 

ごくシンプルに言うなら、状態のよくないときに言ったりやったりしたバチの戻りは遅く、良い時にやったバチの戻りは早い

 

つまり状態が良いと、影響は即時に消え去るのだ

 

この場合の影響とは何か

 

自分の生み出すある種の波動というかエネルギーのように思う

 

それはどこかに当たって自分に戻ってくる

 

まるで物理法則できめられたかのように

 

確かにこの宇宙には法則があってそこから逸脱することはないだろうから、影響がどういう種類のものか、つまり宇宙の法則からしてどうなのかによって決まるのだろう

 

本来その影響は宇宙にとって悪いとか良いという概念はなく、たとえば熱いとか冷たいみたいなものであって、熱い影響は熱く返るし、冷たければ冷たく返る

 

自分にとって良い影響が戻って欲しければやはり良いと思える影響を放つしかなくて、悪い影響を放てばそのように戻ってくるだけの単純な話でもある

 

あとはいつ戻るかだが、ここに自分の状態の良し悪しが関わっていそうなのだ

 

理屈は全くわかっていないのだが、瞑想の調子が良くて非常に快活な状態にあると、戻りが早く、その逆だと遅いことが体験によって明らかなのである

 

自分にとって良いことも悪いこともである

 

調子の良い時などは、ほんの少しカミさんに対する意地悪な発想をしただけで、すぐバチが当たる

 

たとえばそんな発想をしたすぐその後に、立ちあがろうとして、いつもはあり得ない場所に脛をぶつけるとか

 

もちろん良い戻りは分かりにくく、悪い戻りの方が分かりやすい

 

つまるところ、過去に生み出した影響を全て引き受けねばならなくて、それが今生きている理由だと思うので、少しでも負債?を増やさず、減らしていきたいし、もしより良いと思われる影響、つまり貯蓄によって相殺できるならそうしていきたい

 

こうやって考えてくると、いわゆる悟りを開いた人というものは、どう逆立ちしても良くないことなど微塵も考えたりしないんだろうと思える

 

またその逆でそのような状態に近づけば、悟りに近いといえるのかもしれない

 

机の足に脛をぶつけているようじゃまだまだだな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バチの当たるスピード

バチが当たると言う言葉はすでに死語だろうか

 

よくいうZ世代にアンケートでもとってみればわかるだろうがまあそれはいいとして

 

バチが当たるというのは、難しくいえば因果応報である

 

悪いことをしたから悪いことが返ってくる

 

より深く考えてみればこの考え方は輪廻に通ずるものがある

 

人が生み出した影響がその人に戻ってくるので、何度も生まれ変わらねばならないという話である

 

つまり長い時間にわたってその影響が残るともいえる

 

ずっと瞑想を続けてきた経験でいうと、バチの当たるスピードに違いがあることを知っている

 

ごくシンプルに言うなら、状態のよくないときに言ったりやったりしたバチの戻りは遅く、良い時にやったバチの戻りは早い

 

つまり状態が良いと、影響は即時に消え去るのだ

 

この場合の影響とは何か

 

自分の生み出すある種の波動というかエネルギーのように思う

 

それはどこかに当たって自分に戻ってくる

 

まるで物理法則できめられたかのように

 

確かにこの宇宙には法則があってそこから逸脱することはないだろうから、影響がどういう種類のものか、つまり宇宙の法則からしてどうなのかによって決まるのだろう

 

本来その影響は宇宙にとって悪いとか良いという概念はなく、たとえば熱いとか冷たいみたいなものであって、熱い影響は熱く返るし、冷たければ冷たく返る

 

自分にとって良い影響が戻って欲しければやはり良いと思える影響を放つしかなくて、悪い影響を放てばそのように戻ってくるだけの単純な話でもある

 

あとはいつ戻るかだが、ここに自分の状態の良し悪しが関わっていそうなのだ

 

理屈は全くわかっていないのだが、瞑想の調子が良くて非常に快活な状態にあると、戻りが早く、その逆だと遅いことが体験によって明らかなのである

 

自分にとって良いことも悪いこともである

 

調子の良い時などは、ほんの少しカミさんに対する意地悪な発想をしただけで、すぐバチが当たる

 

たとえばそんな発想をしたすぐその後に、立ちあがろうとして、いつもはあり得ない場所に脛をぶつけるとか

 

もちろん良い戻りは分かりにくく、悪い戻りの方が分かりやすい

 

つまるところ、過去に生み出した影響を全て引き受けねばならなくて、それが今生きている理由だと思うので、少しでも負債?を増やさず、減らしていきたいし、もしより良いと思われる影響、つまり貯蓄によって相殺できるならそうしていきたい

 

こうやって考えてくると、いわゆる悟りを開いた人というものは、どう逆立ちしても良くないことなど微塵も考えたりしないんだろうと思える

 

またその逆でそのような状態に近づけば、悟りに近いといえるのかもしれない

 

机の足に脛をぶつけているようじゃまだまだだな