めいそうえっせい

色々と心のままに

客を選ぶ店

その昔、お客様は神様ですなんて言葉が一世を風靡した

 

確か三波春夫さんだかが言ったのではなかったか

 

僕は転勤族だったので日本全国津々浦々それなりに知っているつもりでいるが、客に対するサービス度についても大きく異なると思っている

 

あくまで私見だが、歴史があって保守的な土壌の街は、概してサービスが良い

 

それは多分客がサービスに対して厳しいからである

 

一方そうではないエリアもあるが、なぜそうなのかはよくわからない

 

客がおおらかだからかもしれない

 

昔ある土地のある店でこんなことがあった

 

注文したものと違う料理が来て、同僚が頼んでいないと言うと、なかったのでこっちにしたと平然と店の人が言い、同僚が激怒した

 

あれは一体どういう感覚なんだろうと僕は不思議に思ったものである

 

昨今では、SNSに客への文句を書き込む店主がいたりして、いわゆる炎上しているそうだ

 

客が店の味やサービスについて評価して書き込むのは多いが、その逆なのである

 

僕はたぶん古臭い人間のせいか、お金を取る以上、店側は客に対してそれなりのサービスを提供すべきであると思っている

 

例えばラーメン店でもいいが、無駄口一切禁止とかって店があるそうだが、そういう店には僕は絶対に行かない

 

店主からしたら精魂込めて作った俺のラーメンを真剣に食べて欲しいという思いなのだろうが、いくらなんでもやりすぎだと思うからである

 

もし無駄口を叩かず真剣に食して、その結果期待を下回ったら、お金をいくらか返すっていうのならまだ理解もするが

 

だいぶ前になるが、近所の蕎麦屋に初めて行った時のことだ

 

常連客らしき客で七割がた埋まっていたのだが、不思議なことに注文するものがどれも切れていると言う

 

入店した時からどうも妙な雰囲気ではあったのだが、僕が最初にビールを頼んだのが気に入らなかったのかもしれない(ちなみに昼間だった)

 

とにかく嫌な気分になったのでビールもキャンセルして店を出た

 

もし常連さん相手だけでいいと言うのなら、店の入り口にでも明示すべきだと僕は思う

 

京都が一見さんお断りとする文化は事前に明言しているから成立しているわけで

 

なのでこのような客はお断りしますとちゃんと明示すれば良いと僕は思う

 

その上でとやかく客が言うなら文句をいえば良い

 

つまりは店と客が対等な関係でいいのだから、互いが気持ちよくいられる方法をちゃんとすればいいだけではなかろうか

 

どなたでもどうぞと開けておいて客を入れてから、後で理不尽な要求を言うのは、たとえ料理のレベルが高くとも店のレベルとして低いと言わざるを得ないし、いずれそのような店はやっていけないだろう

 

一方、客の方も金を払っているのだからという意識はやめて、自分にはできないサービスを提供してもらっているという認識が必要だと思う

 

そこにその店があって食事を提供してくれるからこそ美味しいものがいただける

 

お金は食べられないのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

客を選ぶ店

その昔、お客様は神様ですなんて言葉が一世を風靡した

 

確か三波春夫さんだかが言ったのではなかったか

 

僕は転勤族だったので日本全国津々浦々それなりに知っているつもりでいるが、客に対するサービス度についても大きく異なると思っている

 

あくまで私見だが、歴史があって保守的な土壌の街は、概してサービスが良い

 

それは多分客がサービスに対して厳しいからである

 

一方そうではないエリアもあるが、なぜそうなのかはよくわからない

 

客がおおらかだからかもしれない

 

昔ある土地のある店でこんなことがあった

 

注文したものと違う料理が来て、同僚が頼んでいないと言うと、なかったのでこっちにしたと平然と店の人が言い、同僚が激怒した

 

あれは一体どういう感覚なんだろうと僕は不思議に思ったものである

 

昨今では、SNSに客への文句を書き込む店主がいたりして、いわゆる炎上しているそうだ

 

客が店の味やサービスについて評価して書き込むのは多いが、その逆なのである

 

僕はたぶん古臭い人間のせいか、お金を取る以上、店側は客に対してそれなりのサービスを提供すべきであると思っている

 

例えばラーメン店でもいいが、無駄口一切禁止とかって店があるそうだが、そういう店には僕は絶対に行かない

 

店主からしたら精魂込めて作った俺のラーメンを真剣に食べて欲しいという思いなのだろうが、いくらなんでもやりすぎだと思うからである

 

もし無駄口を叩かず真剣に食して、その結果期待を下回ったら、お金をいくらか返すっていうのならまだ理解もするが

 

だいぶ前になるが、近所の蕎麦屋に初めて行った時のことだ

 

常連客らしき客で七割がた埋まっていたのだが、不思議なことに注文するものがどれも切れていると言う

 

入店した時からどうも妙な雰囲気ではあったのだが、僕が最初にビールを頼んだのが気に入らなかったのかもしれない(ちなみに昼間だった)

 

とにかく嫌な気分になったのでビールもキャンセルして店を出た

 

もし常連さん相手だけでいいと言うのなら、店の入り口にでも明示すべきだと僕は思う

 

京都が一見さんお断りとする文化は事前に明言しているから成立しているわけで

 

なのでこのような客はお断りしますとちゃんと明示すれば良いと僕は思う

 

その上でとやかく客が言うなら文句をいえば良い

 

つまりは店と客が対等な関係でいいのだから、互いが気持ちよくいられる方法をちゃんとすればいいだけではなかろうか

 

どなたでもどうぞと開けておいて客を入れてから、後で理不尽な要求を言うのは、たとえ料理のレベルが高くとも店のレベルとして低いと言わざるを得ないし、いずれそのような店はやっていけないだろう

 

一方、客の方も金を払っているのだからという意識はやめて、自分にはできないサービスを提供してもらっているという認識が必要だと思う

 

そこにその店があって食事を提供してくれるからこそ美味しいものがいただける

 

お金は食べられないのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知っているということ

昨日、電車に乗っていてふと思った

 

いつも乗る時間の電車とは違っていたので乗り換え時間が気になったのだ

 

つまりいつもなら乗り換え時間に余裕があるので、ゆったりした気分で降り、ゆったりと歩き、乗り換えホームに行くことができる

 

しかし違う時間なので、乗り換え時間がどうなっているかわからない

 

止まる前にドアの前で待ち、早めに降りて、早足でホームに行った方がいいだろうかとの考えがよぎる

 

僕は待つのが好きではないのですぐそんなふうに考えてしまう

 

でも待てよ

 

早くホームに着きすぎて結局待つのが長くなれば急いだ意味はなくなる

 

要は乗り換えの電車がいつくるかがわかってない=知ってないのだからどうしようもないわけである

 

ということは、乗り換えの電車の時間を知っているということがとても大切で、そのことによって僕の気持ちの余裕が生み出されている

 

気持ちに余裕があることは全てにおいて重要な意味を持つことを体験的に僕は知っている

 

では乗り換え電車の時間を調べれば良いではないか

 

その通りである

 

その時間を知ってしまえば済むことであって、何も大した話でもない

 

しかしである

 

僕はこう思った

 

知っていることにしてしまったらどうかと

 

つまり、乗り換え電車の時間は知らないが、それが何時だろうと自分に最適な時間であると知っていることにすればいいのではないかと思ったわけである

 

ちょっとややこしいのだが

 

ちょうど良いタイミングで乗り換え電車に間に合おうが、結構な時間待たされようが、どちらも自分にとって最適だと思えればいいってこと

 

先を考えて心配したり不安になったりするのではなくて、自分に最適なことと知っていればいいのではないだろうか

 

物事は起こるしそれが自分にとって嫌なこともあれば嬉しいこともあって様々なわけだけど、嫌なことを全て避けるべくもないし、起こることは起こることとして必然なわけなので、それが自分に最適であると知っていさえすれば結局のところ、ゆったりと悠然としていられるのではないかなと

 

で、そう思ったら、うまい具合に乗り換え電車がやってきて、うまい具合にいいところに乗れて、うまい具合にいいところに降りられ、さらにはその日のうちにできるかどうかという要件をスムーズに全てこなせた

 

不思議なものである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

断捨離について僕も考えてみた

ヤフーニュースの横尾忠則氏の記事が面白くて好きなのだ

 

今日は断捨離についてコメントされていた

 

彼曰く、断捨離とはインスタント悟りであって、ヒッピーのドラッグみたいなものと切り捨てている

 

いやあ面白いな

 

お釈迦さまの言われる本物の悟りとは、目の前にモノがあって、それに執着されないこととおっしゃる

 

なるほど、なるほど

 

つまりはモノがあってもよし、なくてもよしってところかな

 

融通無碍って意味なのかも

 

無理に断捨離しなくていいと僕も思うな

 

本当は捨てたくないのに捨てて実は後悔してるなんてのはやっぱりおかしい

 

会社を辞めるのと似てる

 

逃げたくて辞めると結構後悔が多いらしい

 

新たな世界に行きたくてってのならいいかも

 

なので断捨離も、捨てることによって何が得られるかなって考えると、物理的にはスペースが得られるから、そこに新たなモノが置けることになる

 

また置いたら断捨離になるのかな

 

多分それでもいいと思う

 

断捨離はスペースを作って快適な暮らしをするっていう意味もあるとは思うけど、古くてただなんとなく置いてあるだけのモノを処分して、新たに自分の好みとかスタイルに合ったモノを置けばそれだけで気分は良くなるし

 

ところで、僕はつい最近、古い友人を断捨離した

 

こんなふうに書くとさぞ冷たい人間と思われるかもしれないが、要は、付き合いをやめただけである

 

彼との付き合いは会社に入ってからだからおよそ40年にもなる

 

もちろん互いに転勤族なのでずっと一緒だったわけでもないが、なんだかんだでゆるく長く付き合ってきた

 

会社を辞めてからその付き合いの濃度は濃くなったのだけど、そうなると関係が変化し始めた

 

はっきり言ってしまうと彼の嫌な面が見えるようになってきてしまったのである

 

彼と最後に会った際に、随分と(悪い方に)変わってしまったと言われたが、もしかするとそうかもしれない

 

彼は昔からそのままで、変わったのは僕なのかもしれない

 

あるいはお互いにかもしれない、それはわからない

 

こんなはずじゃなかったということは長く連れ添った夫婦でもありうる

 

人は変化するから

 

ただ彼とはもう付き合ってはいけないと思ってしまった

 

理由は信頼できるかどうかということなのだが、僕は彼に裏切られたように思ってしまったのである

 

僕自身が信頼に足る人物かどうかということももちろんあって、もしかすると、そうではないがために彼もそのような言動なり行動なりを取った可能性もある

 

そうであるなら気づいてさえいない僕は猛省せねばならない

 

そして考えた

 

彼との関係に執着する必要はないのではないかと

 

せっかく積み重ねてきた40年という関係の重みは捨て難いが、その一方で、互いのためにならない古い関係を断ち、新たな関係に向かうことにも意味があると思った

 

では関係を断ってみて僕は今どう感じているだろうか、後悔しているだろうか

 

答えは否であった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生のほとんどのことはどうでもいいことに違いない

人生のほとんどのことはどうでもいいことに違いないということがわかるのには随分と時間がかかる

 

そういう僕にしたって、あと20年生きているかどうか分からない年齢なのに、どうでもいいことにばかり時間を費やしてるのだから

 

ただ問題はどうでもいいと思っていたことがそうでもなかったりすることがあるってことだろう

 

ここがややこしい

 

どうでもいいってことに気づいていて、本当に大切なことに注意を向けていられればそれでいいのだが、どうでもいいと気づいていないことも多々あって、ではそれが無駄になるのかと言われれば、真実に近づく自分のステップには必要だったりもするわけで

 

世界は混沌に満ちている

 

自分が思い込んでいた正義が覆される

 

何が正しくて何が間違っているのか

 

いやそもそも正しいも間違いもないのだろう

 

どうありたいかだけなのだろう

 

個人のどうありたいかが今の世界を形作っている

 

ここで何かとか誰かを批判するつもりはない

 

僕はどうありたいのか

 

まず僕は正直でありたい

 

他人に対してだけではなく少なくとも自分自身には

 

そのためには正直であることを選べなければならない

 

後になってから、ああ、あの言葉は正直じゃなかったなと言わなくて済むように

 

それから他人に親切でありたい

 

乗り物の中で、お年寄りとか妊婦さんとか、明らかに気分の悪そうな人とか、そういう人を見かけたらすぐ席を譲る人でありたいし、自分のできる親切が何かに気づいていたい

 

全てを優しい目で見たい

 

ついこの前、あるレトロな喫茶店で、多分70歳はゆうに超えている女性数人がいて、大きな声で喋り、そのうちの一人は電話まで何度も掛けてはさらに大声で話していて僕は思わずそちらを睨んでしまったのだが、そういうことをやめたい

 

自分に気づいていたい

 

自分に気づいていられれば、全てを選択する力を持っているのを同じになるから

 

僕なりの結論

 

自分に気づいてさえいれば、人生のほとんどはどうでもいいことではなくなる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説作法 スティーブンキング

物書きを趣味にする者にとっては非常に興味深い本である

 

いや、もしかするとプロの作家にとってもそうかもしれない

 

先日、小説家と飲んだ

 

女性である

 

二人きりではなく他にも数人いた

 

さすがにプロだけあって、視点も指摘も鋭く、なるほどと思わせる

 

その中で彼女は、読者へのサービス精神が重要だということを強調した

 

書き手中心の独りよがりになるなという意味を多分に含んでいる

 

また私の今書いている作品については、救いをぜひ入れるべきであるとおっしゃった

 

実は私はどのような展開とラストにするか迷っていた(今も迷っている)

 

確かにあまり救いのない話を書いている

 

かといって安直な救いが必要だろうかという思いがある

 

人生は厳しい

 

まるで救いがないように見えるのも現実である

 

しかし人はどこかに救いを見出すのではなかろうか

 

そんなとき、スティーブンキングの小説作法を読んだ

 

小説というものは、人の数だけあるのではと思わされるほど多彩である

 

流儀もへったくれもない

 

語彙、文法、構成、その他、意見は数々あれど、どこにも定型的なルールなど存在しない

 

極論すれば好き嫌いがあるだけだ

 

こう書かなくてはなどは何一つない(と思う)

 

これまで四人の講師(編集者二人、小説家二人)に習った経験からすると、

 

1、人称と登場人物の数

2、時代背景 いつを書いているか

3、冒頭のつかみ、読者サービス

4、内側にある書きたい、書かねばならないことを書く

 

この4つに集約される

 

1と2は基本的な小説のルール的な作法、つまりは読み手側が混乱しないようにという書き方であり、3、4は書く上での心構えみたいなものを言っていて、1、2は編集者、3、4は小説家であることが興味深い

 

いずれにしても、これが小説の書き方であると明瞭明確に言えるものは何一つない

 

その点、スティーブンキングは明確である

 

1、よく読み、よく書く これが出来なければ作家を目指すな

2、構成不要

3、小説は作り上げるものではなく、化石のようにすでにあるものを慎重に掘り出す

  仕事である

等々、これほど僕に刺さった言葉はない

 

僕を小説の世界に誘ってくれた友人は、ストーリーを考え、登場人物のキャラ設定をし、プロットを細かく構築(構成)すべきという考え方の持ち主で、それを図解にして講座の参加者に配ったりした

 

僕はといえば、小説を書く面白さとは、出来上がっていくワクワクするようなプロセスにこそあるような気がしていた

 

ある程度のストーリーというか、こんな話を書きたいと思って書き出すのだが、それが途中から変わっていってしまうことが多く、自分でも予想がつかないのである

 

僕はそんな自分の書き方は邪道だと思っていて、正統派ではないと思っていた

 

ところが小説の作法によって、それが意外にも的を得た書き方かもしれないと思えたのである

 

例えばあるシーンを書こうとするが、どうにも納得できない

 

それがなぜだか自分でもわからない

 

しばらく放っておくと、ふと全く異なるシーンが浮かんだりして、ああこれだったと思ったりする

 

こんなことが多い

 

読んでくださる方がいるとして、どう読まれるかは全くわからず、どちらのシーンがいいのかと悩むが、スティーブンキングは明確に僕のやり方を支持している

 

作家になれるかどうか、売れるかどうかより、世界に埋もれる化石を発掘する仕事と思うと、胸が踊るのは多分僕だけではないだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忖度は賄賂と同じである 特に日本のメディアと政治

「忖度」とは広辞苑には「他人の気持ちを推しはかる」とあるようだ

 

つまり本来ポジティブな意味である

 

国民性で言えば最も日本人に当てはまるだろう

 

意見を主張せず、他人の気持ちを慮り、空気を読んで調和を大切にする

 

日本人の美徳そのものを表しているともいえる「忖度」

 

僕なんかは武家社会をつい思い浮かべてしまう

 

お家大事だった時代は、常に個より家が優先されただろう

 

しかも時代劇やら何やらでいまだにその頃の文化とか精神を繰り返し国民は刷り込まれているし

 

自己犠牲が美徳のような意識は僕にもある

 

なので「忖度」がこの日本において全て悪いとは思わない

 

ある意味潤滑油のような役割を持つ

 

ところが、個を犠牲にする事件に忖度がはびこるとこれが悪になる

 

個を犠牲にする事件とは、お家大事と見せかけて、実際には立場の強い個が、自分の立場を守るために行うエゴに他ならない

 

これが今日本でそこらじゅうに起きている「忖度」の悪い面である

 

つまり、相手のためではなく、自分のためにやっていることである

 

相手を慮っているように見せかけているが、実は自分が相手からどう見られているかを慮っているのである

 

しかも日本の場合、最も透明性が求められる、メディアと政治にそれが甚だしい

 

だからどんどん「個」が犠牲になる

 

立場の強い者だけが自分の立場を守り、その周りにまた忖度を作り出す

 

つまり、「忖度」は「賄賂」と同じ意味になる

 

本来ポジティブな言葉である忖度は精神的賄賂に成り下がる

 

これではいけない

 

美徳が悪徳に変わる

 

日本人は外国人に優しいそうだ

 

では同じ日本人に優しいか

 

日本人たる自分が外国人から悪く見られたくないだけではないのか

 

僕は天邪鬼だからかもしれないが、外国人に、例えば英語で尋ねられても日本語で返すことにしている

 

先方がわからなければそれまでだ

 

ここは日本だから

 

別に意地悪をするつもりはないが、少なくとも外国人に良く見られようなどとはこれっぽっちも思ってはいない

 

対等でいいではないか

 

日本では日本語を話す

 

僕はもちろんアメリカに行けば一生懸命英語を話そうと努力する

 

アメリカで生活する日本人は主張が弱いと言われるらしい

 

それはアメリカの文化だから

 

日本では主張せず忖度する

 

それは日本の文化だから

 

しかしどこにも共通する大切なことは、主張でも忖度でもなく、真に大切なものを守り通すだけの矜持と覚悟だろう

 

主張しようがしまいが、忖度しようがしまいが、その精神が根底にあることが何よりも大切だろう

 

武家社会の時代にだって、自分の命を犠牲にして直訴をする人間も日本にはいた

 

その精神は忖度とは無縁であると誰もが知っているだろう

 

そしてその精神は欧米でも日本でもどこでも等しく根底に流れる人間としての誇りではないか