めいそうえっせい

色々と心のままに

知っているということ

昨日、電車に乗っていてふと思った

 

いつも乗る時間の電車とは違っていたので乗り換え時間が気になったのだ

 

つまりいつもなら乗り換え時間に余裕があるので、ゆったりした気分で降り、ゆったりと歩き、乗り換えホームに行くことができる

 

しかし違う時間なので、乗り換え時間がどうなっているかわからない

 

止まる前にドアの前で待ち、早めに降りて、早足でホームに行った方がいいだろうかとの考えがよぎる

 

僕は待つのが好きではないのですぐそんなふうに考えてしまう

 

でも待てよ

 

早くホームに着きすぎて結局待つのが長くなれば急いだ意味はなくなる

 

要は乗り換えの電車がいつくるかがわかってない=知ってないのだからどうしようもないわけである

 

ということは、乗り換えの電車の時間を知っているということがとても大切で、そのことによって僕の気持ちの余裕が生み出されている

 

気持ちに余裕があることは全てにおいて重要な意味を持つことを体験的に僕は知っている

 

では乗り換え電車の時間を調べれば良いではないか

 

その通りである

 

その時間を知ってしまえば済むことであって、何も大した話でもない

 

しかしである

 

僕はこう思った

 

知っていることにしてしまったらどうかと

 

つまり、乗り換え電車の時間は知らないが、それが何時だろうと自分に最適な時間であると知っていることにすればいいのではないかと思ったわけである

 

ちょっとややこしいのだが

 

ちょうど良いタイミングで乗り換え電車に間に合おうが、結構な時間待たされようが、どちらも自分にとって最適だと思えればいいってこと

 

先を考えて心配したり不安になったりするのではなくて、自分に最適なことと知っていればいいのではないだろうか

 

物事は起こるしそれが自分にとって嫌なこともあれば嬉しいこともあって様々なわけだけど、嫌なことを全て避けるべくもないし、起こることは起こることとして必然なわけなので、それが自分に最適であると知っていさえすれば結局のところ、ゆったりと悠然としていられるのではないかなと

 

で、そう思ったら、うまい具合に乗り換え電車がやってきて、うまい具合にいいところに乗れて、うまい具合にいいところに降りられ、さらにはその日のうちにできるかどうかという要件をスムーズに全てこなせた

 

不思議なものである