めいそうえっせい

色々と心のままに

瞳を閉じてとお金本

つい先日、ビクトルエリせ監督作品「瞳を閉じて」を観た。

 

小説仲間に感化されたからだった。

 

3時間に及ぶ長い映画だった。

 

正直、僕にはよくわからず、退屈でその前の日にゴルフをしたせいもあって、何度か眠りそうになったほどである。

 

主人公は映画監督で、ずっと前に撮った映画の主人公が失踪しているのだが、あるテレビ番組がその失踪事件を追うという特集を組むという設定である。

 

サスペンスタッチで描かれていくため、どんな謎が隠されているのだろうと興味をそそられるが、結局は最後まで明かされない。というか、それが主題ではないとわかる。

 

非常に難解な映画だが評を読むとわかる人にはわかるらしい。

 

一つ一つのセリフやシーンに隠された意味を読み解く必要がありそうだが、僕にはどうしてもわからなかった。

 

でも不快ではなかった。若い頃読んだ詩集を思い出した。あの時も何を書いているのか全くわからなかった。あのような映画は意味を見出すより感じることが重要かもしれないと思ったのである。

 

監督と主役は若い頃従軍した兵士として友人関係にあった。恋愛のライバルでもあったかもしれない。

 

失踪した主役は修道院のような場所で見つかるが本人に記憶はない。なぜかいつも靴を脱いでしまい裸足である。主役の娘を引き合わせるが記憶は蘇らない。監督は、主役の演じた映画を見せることを思いつき、小さな映画館で関係者を招いて見せる。

 

じっと観ていた主役は最後に瞳を閉じる。

 

さて僕が感じたものは何か。とてもひと言では言い表せない。感動とか落胆でもない。ただ何かが心に残されたのだ。それは人生そのもののようなものかもしれない。人生が終わる時の総体のような何か。全ての感情や経験。

 

感じたのはあえて言えば「重さ」かもしれない。計り知れない「重さ」

そう、重かった。しかし昏くはなかった。

 

同じようについ最近、「お金本」という本を読んだ。作家たちのお金にまつわるエッセイや手紙などをただ並べただけの本だが、これが面白い。

 

金がないのに酒を飲む。友人知人に金を借りる。当然催促されるが、なんやかやと言い訳をして返さない。原稿料が入るが借金を返さずまた飲んでしまう。

 

一部の作家を除いてほとんどは金に困っていたことを窺わせるが、あっけらかんとしておおらかなものであり明るい時代を感じさせるのだ。

 

最近になく面白い本だと思って読み進めたが、最後の最後に嫌になった。

 

村上春樹の文章である。

 

彼は貧乏と貧乏人の定義を語っていた。

 

彼らの若い頃は貧乏だったが、人生の価値観は金になかったそうだ。

 

ところが最近は若い女性が平然と貧乏は嫌だと言うことに時代の移り変わりを見、近所のおっさんが汚い格好をして朝からメルセデスを後生大事に磨いていて、そんなおっさんこそ貧乏だと決めつけていた。

 

僕はこの文章を読んで不愉快になった。

 

金に対する価値観なぞくそくらえだ。過去の作家連中の誰一人としてそんなことを論じてはいない。ただ単に貧乏をして金がないことを淡々と書いているに過ぎない。なのにお前はどうだ。自分が成功者とばかり、金の価値観をバックに他人を貶めている。

 

以前にも書いたが、僕は村上春樹作品がいつの頃からか嫌いになった。

 

話題に釣られて読んできはしたが、あのまやかしのようなセックスと音楽だけのくだらない中身に気づくまでたくさんのお金を払わされた。

 

一生懸命買った車を嬉々として磨くおっさんのことをどうこう言う前に、お前の本に払った金を返せと僕は思ったのである。