先日、ある人に新宿の文壇バーに連れて行ってもらった
バーと言っても、造りはスナックのような感じ
ただ古くからある有名なお店のようで名だたる作家が通ったそうである
作家というものから酒は切り離せないのかどうかは知らないが、酒を飲めば、文学論に花を咲かせるのは素人目にも何となく理解できる
僕と友人でさえ、互いの作品にああだこうだと意見を戦わせるのだが、酒が入るとつい過激になってしまう傾向なきにしもあらず、いや必ずなってしまう
それがまた面白く楽しいのだからしょうがない
それにしても文人にしろ、出版社関連の人にしろ、素人作家にしろ、そのほぼ全てが、他人の作品に対してああも厳しくなれるのはなぜだろう
いわゆる読者、つまり読むだけの人にはないように思われる
もちろん好きな作家や嫌いな作家、例えば村上春樹は好きか嫌いか云々について議論することはあっても、それはまあ、アイドルとか映画のそれと同じような嗜好的感覚に違いない
ところが書く人は違うのだ
単なる好き嫌いを遥に超えている
ひどい場合には憎しみさえ感じるほどである
僕はものを書くのは自己表現だと思っている
ブログもそうだし小説もそう
自己を表現する行為は自己を解放することでもある
僕はこうであると示すことで僕はその分だけ解放されて自由になる
書く人たちが他人の作品に噛み付いたりこき下ろすのは、自分の書いたもの、つまり自己に対して何かが反発するか共鳴するかではなかろうか
そこには自己をもっと深く表現せねばならないと思わせる何かが存在するように感じてしまうのではないか
例えば、知識ばかりをひけらかしてとても小説とは思えないものを書く人がいたとする
それをあからさまに非難する人がいる
あんなものは小説とはいえないと
ところが僕はあれはあれで書きたいのだろうから小説の定義を持ち出す必要もないだろうくらいに思っている
しかしその人には許せない
へえ、そんな人もいるのかと思っていたが、よくよく考えてみると、その人は、自分もそのようなことにある種の憧れとか願望を心のどこかに持っていて、それを解放できない自分に対して怒りを感じているのではないだろうかと思い当たるのである
心理学的にそういうのをなんというのか全く知らないが人間の心理とはそんなものかもしれない
かくいう僕も同じで、つい最近何冊かの本を読む機会があったが、それは僕と同じ世代の作家たちが30代くらいに書いた本で、不思議なことに、同じようなディテールというかタッチというか、もしかすると当時の流行があったのかもしれないが、とてもよく似ていて、それは僕にとってはとても読みづらく、辟易としてしまうのである
それが何なのかは具体的にはわからない
ただ極端な話、字面を追っていても頭に入ってきもしないほどなのだ
なので、長編なのに高々30分ほどの流し読みになる
パラパラパラとめくり気になる単語だけを拾う
要はあらすじを読むようなものである
作者には申し訳ないがそれしかできない
何が反発もしくは共鳴しているのかさっぱりわからないが、とにかくそうなのだ
ほんの少し感じるのは、ウソくささかな
自分がそこにいるのではなく、他人の頭の中にいるように思えてしまう
だからそこから逃げ出したくなる感じ
自分の書いているものがそうでないことをただ祈るのみ