「忖度」とは広辞苑には「他人の気持ちを推しはかる」とあるようだ
つまり本来ポジティブな意味である
国民性で言えば最も日本人に当てはまるだろう
意見を主張せず、他人の気持ちを慮り、空気を読んで調和を大切にする
日本人の美徳そのものを表しているともいえる「忖度」
僕なんかは武家社会をつい思い浮かべてしまう
お家大事だった時代は、常に個より家が優先されただろう
しかも時代劇やら何やらでいまだにその頃の文化とか精神を繰り返し国民は刷り込まれているし
自己犠牲が美徳のような意識は僕にもある
なので「忖度」がこの日本において全て悪いとは思わない
ある意味潤滑油のような役割を持つ
ところが、個を犠牲にする事件に忖度がはびこるとこれが悪になる
個を犠牲にする事件とは、お家大事と見せかけて、実際には立場の強い個が、自分の立場を守るために行うエゴに他ならない
これが今日本でそこらじゅうに起きている「忖度」の悪い面である
つまり、相手のためではなく、自分のためにやっていることである
相手を慮っているように見せかけているが、実は自分が相手からどう見られているかを慮っているのである
しかも日本の場合、最も透明性が求められる、メディアと政治にそれが甚だしい
だからどんどん「個」が犠牲になる
立場の強い者だけが自分の立場を守り、その周りにまた忖度を作り出す
つまり、「忖度」は「賄賂」と同じ意味になる
本来ポジティブな言葉である忖度は精神的賄賂に成り下がる
これではいけない
美徳が悪徳に変わる
日本人は外国人に優しいそうだ
では同じ日本人に優しいか
日本人たる自分が外国人から悪く見られたくないだけではないのか
僕は天邪鬼だからかもしれないが、外国人に、例えば英語で尋ねられても日本語で返すことにしている
先方がわからなければそれまでだ
ここは日本だから
別に意地悪をするつもりはないが、少なくとも外国人に良く見られようなどとはこれっぽっちも思ってはいない
対等でいいではないか
日本では日本語を話す
僕はもちろんアメリカに行けば一生懸命英語を話そうと努力する
アメリカで生活する日本人は主張が弱いと言われるらしい
それはアメリカの文化だから
日本では主張せず忖度する
それは日本の文化だから
しかしどこにも共通する大切なことは、主張でも忖度でもなく、真に大切なものを守り通すだけの矜持と覚悟だろう
主張しようがしまいが、忖度しようがしまいが、その精神が根底にあることが何よりも大切だろう
武家社会の時代にだって、自分の命を犠牲にして直訴をする人間も日本にはいた
その精神は忖度とは無縁であると誰もが知っているだろう
そしてその精神は欧米でも日本でもどこでも等しく根底に流れる人間としての誇りではないか