バチが当たると言う言葉はすでに死語だろうか
よくいうZ世代にアンケートでもとってみればわかるだろうがまあそれはいいとして
バチが当たるというのは、難しくいえば因果応報である
悪いことをしたから悪いことが返ってくる
より深く考えてみればこの考え方は輪廻に通ずるものがある
人が生み出した影響がその人に戻ってくるので、何度も生まれ変わらねばならないという話である
つまり長い時間にわたってその影響が残るともいえる
ずっと瞑想を続けてきた経験でいうと、バチの当たるスピードに違いがあることを知っている
ごくシンプルに言うなら、状態のよくないときに言ったりやったりしたバチの戻りは遅く、良い時にやったバチの戻りは早い
つまり状態が良いと、影響は即時に消え去るのだ
この場合の影響とは何か
自分の生み出すある種の波動というかエネルギーのように思う
それはどこかに当たって自分に戻ってくる
まるで物理法則できめられたかのように
確かにこの宇宙には法則があってそこから逸脱することはないだろうから、影響がどういう種類のものか、つまり宇宙の法則からしてどうなのかによって決まるのだろう
本来その影響は宇宙にとって悪いとか良いという概念はなく、たとえば熱いとか冷たいみたいなものであって、熱い影響は熱く返るし、冷たければ冷たく返る
自分にとって良い影響が戻って欲しければやはり良いと思える影響を放つしかなくて、悪い影響を放てばそのように戻ってくるだけの単純な話でもある
あとはいつ戻るかだが、ここに自分の状態の良し悪しが関わっていそうなのだ
理屈は全くわかっていないのだが、瞑想の調子が良くて非常に快活な状態にあると、戻りが早く、その逆だと遅いことが体験によって明らかなのである
自分にとって良いことも悪いこともである
調子の良い時などは、ほんの少しカミさんに対する意地悪な発想をしただけで、すぐバチが当たる
たとえばそんな発想をしたすぐその後に、立ちあがろうとして、いつもはあり得ない場所に脛をぶつけるとか
もちろん良い戻りは分かりにくく、悪い戻りの方が分かりやすい
つまるところ、過去に生み出した影響を全て引き受けねばならなくて、それが今生きている理由だと思うので、少しでも負債?を増やさず、減らしていきたいし、もしより良いと思われる影響、つまり貯蓄によって相殺できるならそうしていきたい
こうやって考えてくると、いわゆる悟りを開いた人というものは、どう逆立ちしても良くないことなど微塵も考えたりしないんだろうと思える
またその逆でそのような状態に近づけば、悟りに近いといえるのかもしれない
机の足に脛をぶつけているようじゃまだまだだな