めいそうえっせい

色々と心のままに

思考に関する考察

思考とはえてして自分勝手なものである

 

しかもふらふらする

 

ふらふらするという意味は、一つにはあれやこれやと価値判断しながら彷徨うということであるし、もう一つは過去や現在や未来を行ったり来たりするということでもある

 

例えば投資を例にとってみよう

 

ある株を買おうかどうかと思考する

 

株などというものに絶対はないのでもちろん迷う

 

こうなったらああなったらと

 

同時に、過去にやった投資の体験を振り返ったり、損得がもたらす未来を想像したりもするわけだ

 

つまりはまだ起こり得ないことをさも起こるか、もしくは起こらないかを思考しているわけなのだ

 

一体僕は何をしているのだろう

 

実は何もしていなくてふらふらしているだけ

 

思考というものはある意味そんなものだろう

 

先日、家の壁の一部を塗ってもらった

 

経年劣化で汚れたり少し破損しているところがあってそれが気になっていたからである

 

二つの業者さんに見積もりを取ったら、一つはもう一つの半分である

 

見にきてくれたその安い方の業者さんは、地元に根ざした方だったのでそちらに決めた

 

ところが施工にあたって、僕の要望とは少々異なることが判明した

 

結論だけ言うと、僕は少々不安になったのである

 

安かろう、悪かろうになるのではと

 

なので色々と思考した

 

こうなったらどうしよう、嫌だなとか、今から断れるだろうかとか、でも他に頼んだらもっとお金がかかるなとか、、、

 

思考は勝手にやってきて僕の頭の中をぐるぐるとあっちへいきこっちへいきした

 

株と同じで堂々巡りだ

 

そんな時、ふと思考が違うステージに入った

 

僕は何も現れていない前から一体何をしてるんだろうと

 

あえて断っておきたいのだけれど、僕は自分を責めたのではない

 

表現することが難しいのだが、思考するのを放り投げて、どんなふうに何が現れようとも上手くいくと「知った」のである

 

うーん、難しいなあ

 

開き直ったってわけでもないし、ダメもとみたいに諦めたわけでもない

 

ただ上手くいくと「知った」のだ

 

予知能力でもない

 

あえて言えば、結果として上手くいってなくても上手くいったのだ

 

なので本当に上手くいった

 

この辺り本当に難しい

 

説明はもうやめよう

 

ただ僕は知ったのである

 

上手くいくと知ってさえすれば上手くいくことを

 

多分このコツは瞑想で身につけたのじゃなかろうか

 

ぽんとあの世界に放り投げておけばいいってことだから

 

もっと上手に説明できるようにしなければ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の政治と松本人志問題

日本の政治と松本人志問題はその権力構造と閉鎖性において近似する

 

異なるのは外圧の有無だけである

 

前者に外圧、つまり選挙がなく、後者には文春という外圧があった

 

政治において国民は選挙という手段で外圧を働かせうるが、変化をよしとしない高齢化社会と、ことなかれ主義で変革エネルギーの乏しい若者で構成される日本社会の現状では難しいかもしれない

 

一縷の希望は、自治体の首長である

 

彼らは前回述べたように、一国一城の主であって、比較されうる

 

もちろん閉鎖的な自治体もあって既存の権力構造や集票団体と密接なつながりを持っているために外圧が働かないところもある

 

しかしそれが少しずつ変化しているようにも思える

 

信念を持ってマツリゴトを行おうとする首長が増えているように思える

 

その人たちが新たなる日本のリーダーとして真っ当に、かつ穢れることなく大きく育って欲しいと願っている

 

一方の松本人志問題である

 

彼はお笑い界のトップに君臨する権力者である

 

ところが文春という外圧で休業を余儀なくされた

 

もしかすると性加害ではないと彼は言いたいのかもしれない

 

後輩芸人に合コンを設定させ、やってきた女性と飲んでたまたまそのような関係になった、つまりは合意のもとであると言いたいのかもしれない

 

百歩譲ってその主張を受け入れるとしよう

 

僕はこう思う

 

だとしても最低な人間だと

 

なぜならトップだから

 

日本の政治家が姑息にもあのような裏金問題を起こしながら、法的には問題がないと保身だけに必死になり、さらには見せかけだけの本部を立ち上げて逃げようとしていることと、松本人志のやっていることは同じ構図である

 

違うのは文春という外圧があって松本人志は逃げきれなかっただけである

 

そもそも、お笑い界のトップに君臨する人間が、大学生でもあるまいに、後輩芸人に合コンを設定させるということ自体があり得ない

 

もっと端的に言おう

 

遊ぶなら自分で遊べ

 

他人や後輩を巻き込むな

 

知名度も金もあるのだ

 

それをコソコソと後輩を使う仕組みを作ってやること自体がトップの所業ではないのだ

 

つまり彼は日本の政治トップと同じく、たまたまトップになれてしまっただけで、トップとしての人間力も資質も、さらにはトップとしての覚悟も何もなかったことを露呈してしまったのである

 

日本の政治トップは小心者ではないが、政治家に必要な基本的な資質が完全に欠落している

 

その資質とは先を見通す目とこういう国を作りたいという圧倒的な熱量に他ならない

 

どちらもない

 

この辺りが世襲の問題なのだと思わされる

 

一方、松本人志のお笑いセンスは高い

 

高いが、僕は松本人志という人間は相当な小心者ではないかと思っている

 

その理由は書かないが彼を見ていてよくそう思う

 

小心者ほど権力を握るとしがみつき権力に頼る

 

今回の事件はまさしくそれを証明したといえると僕は思う

 

ちなみに娘は松本人志のファンで、僕が少しでも彼のことを悪く言うと、機嫌を損ね、まっちゃんは何事もなかったように戻ってくると言った

 

ジャニーズ同様、これがファン心理というものかと思わされたが、もしかするとグルーミングという現象につながるのかもしれないとも思った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年頭におもう

なんだかんだと言いながらすでに1月も中旬になってしまったのである

 

今、東の小窓には、淡いブルーバックの空に綿菓子のような雲が流れている

 

静かで平和そのものである

 

ところが、こうしている今も世界では戦争があり、誰かが犠牲になっているし、日本では石川能登の大地震によって家族を失ったり、大変な思いで避難生活を余儀なくされている人々がいる

 

頭で分かっているが実感はない

 

経験をしていない自分には要するに他人ごとである

 

僕は僕自身と自分の周りのことにだけ注意が向いているのだ

 

こんな歳になってもそんな小さな視野の自分が嫌にならないでもない

 

それにしても日本の政治の劣化が著しい

 

政治家だけの責任には思えず、日本の構築してきたマツリゴトの仕組みそのものが機能しなくなっているように思える

 

もちろん仕組みは人間の作ったものなので、時代に合わせて柔軟に変えていければいいだけだが、日本人はどうにもその辺りが不得手である

 

一旦作ったものにしがみつくきらいがある

 

変えられないのである

 

ましてや高齢化社会になっていて、僕も含めて高齢者が増えるとその傾向はさらに高まるだろう

 

日本はずっとそう言われ続け、外圧でしか変わらないと言われてきたがその通りだと僕は思う

 

ジャニーズ問題も決め手は国連の人権理事会だった

 

日大は外圧が働かない閉鎖された環境のためにいまだに変われないでいてこれは日本の政治と似たような構図である

 

権力者が権力者に都合の良いようにできてしまう仕組みを変えられない

 

その根本的な理由は、不透明性にある

 

もっと端的にいうと、具体的に比べられないのである

 

分かりやすい例を挙げると、大谷翔平である

 

彼が一流であると認められるのは、成績に他ならない

 

打率が三割を超え、ホームラン王になり、投手として二桁勝利を挙げる

 

しかもこれだけではない

 

さまざまな客観的数字が分析され比較されている

 

そのほとんどで抜きん出た存在になっているのが一目瞭然なのだ

 

翻って、日本の政治はどうか

 

比較できる何かがあるか

 

彼らの優劣を判断する指標は何か

 

はっきり言って何もないのである

 

いや、実は中身を透明化すればいくらでもできるのだが、肝心の中身がブラックボックスになっている

 

それが彼らを守り続けている仕組みに他ならない

 

日大も同じ

 

日大の経営層の優劣を判断する指標があるかということ

 

物事を変化させるには見えなくてはならないのである

 

それがスタートラインになる

 

お笑い芸人の松本人志の性加害問題が文春に書かれたことがきっかけで休業に追い込まれた

 

まだ真実はわからない

 

わからないが、文春が外圧だったことは間違いない

 

今まで見えなかったものが見えたことで変化させられたのである

 

政治資金規正法問題も同じだが残念なことに抜本的な解決にはならずまた同じことに戻るだろう

 

外圧が働いていないからである

 

日本の政治に対する外圧とは何か

 

選挙である

 

国民の意思である

 

それを年頭に強く思う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バチの当たるスピード

バチが当たると言う言葉はすでに死語だろうか

 

よくいうZ世代にアンケートでもとってみればわかるだろうがまあそれはいいとして

 

バチが当たるというのは、難しくいえば因果応報である

 

悪いことをしたから悪いことが返ってくる

 

より深く考えてみればこの考え方は輪廻に通ずるものがある

 

人が生み出した影響がその人に戻ってくるので、何度も生まれ変わらねばならないという話である

 

つまり長い時間にわたってその影響が残るともいえる

 

ずっと瞑想を続けてきた経験でいうと、バチの当たるスピードに違いがあることを知っている

 

ごくシンプルに言うなら、状態のよくないときに言ったりやったりしたバチの戻りは遅く、良い時にやったバチの戻りは早い

 

つまり状態が良いと、影響は即時に消え去るのだ

 

この場合の影響とは何か

 

自分の生み出すある種の波動というかエネルギーのように思う

 

それはどこかに当たって自分に戻ってくる

 

まるで物理法則できめられたかのように

 

確かにこの宇宙には法則があってそこから逸脱することはないだろうから、影響がどういう種類のものか、つまり宇宙の法則からしてどうなのかによって決まるのだろう

 

本来その影響は宇宙にとって悪いとか良いという概念はなく、たとえば熱いとか冷たいみたいなものであって、熱い影響は熱く返るし、冷たければ冷たく返る

 

自分にとって良い影響が戻って欲しければやはり良いと思える影響を放つしかなくて、悪い影響を放てばそのように戻ってくるだけの単純な話でもある

 

あとはいつ戻るかだが、ここに自分の状態の良し悪しが関わっていそうなのだ

 

理屈は全くわかっていないのだが、瞑想の調子が良くて非常に快活な状態にあると、戻りが早く、その逆だと遅いことが体験によって明らかなのである

 

自分にとって良いことも悪いこともである

 

調子の良い時などは、ほんの少しカミさんに対する意地悪な発想をしただけで、すぐバチが当たる

 

たとえばそんな発想をしたすぐその後に、立ちあがろうとして、いつもはあり得ない場所に脛をぶつけるとか

 

もちろん良い戻りは分かりにくく、悪い戻りの方が分かりやすい

 

つまるところ、過去に生み出した影響を全て引き受けねばならなくて、それが今生きている理由だと思うので、少しでも負債?を増やさず、減らしていきたいし、もしより良いと思われる影響、つまり貯蓄によって相殺できるならそうしていきたい

 

こうやって考えてくると、いわゆる悟りを開いた人というものは、どう逆立ちしても良くないことなど微塵も考えたりしないんだろうと思える

 

またその逆でそのような状態に近づけば、悟りに近いといえるのかもしれない

 

机の足に脛をぶつけているようじゃまだまだだな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バチの当たるスピード

バチが当たると言う言葉はすでに死語だろうか

 

よくいうZ世代にアンケートでもとってみればわかるだろうがまあそれはいいとして

 

バチが当たるというのは、難しくいえば因果応報である

 

悪いことをしたから悪いことが返ってくる

 

より深く考えてみればこの考え方は輪廻に通ずるものがある

 

人が生み出した影響がその人に戻ってくるので、何度も生まれ変わらねばならないという話である

 

つまり長い時間にわたってその影響が残るともいえる

 

ずっと瞑想を続けてきた経験でいうと、バチの当たるスピードに違いがあることを知っている

 

ごくシンプルに言うなら、状態のよくないときに言ったりやったりしたバチの戻りは遅く、良い時にやったバチの戻りは早い

 

つまり状態が良いと、影響は即時に消え去るのだ

 

この場合の影響とは何か

 

自分の生み出すある種の波動というかエネルギーのように思う

 

それはどこかに当たって自分に戻ってくる

 

まるで物理法則できめられたかのように

 

確かにこの宇宙には法則があってそこから逸脱することはないだろうから、影響がどういう種類のものか、つまり宇宙の法則からしてどうなのかによって決まるのだろう

 

本来その影響は宇宙にとって悪いとか良いという概念はなく、たとえば熱いとか冷たいみたいなものであって、熱い影響は熱く返るし、冷たければ冷たく返る

 

自分にとって良い影響が戻って欲しければやはり良いと思える影響を放つしかなくて、悪い影響を放てばそのように戻ってくるだけの単純な話でもある

 

あとはいつ戻るかだが、ここに自分の状態の良し悪しが関わっていそうなのだ

 

理屈は全くわかっていないのだが、瞑想の調子が良くて非常に快活な状態にあると、戻りが早く、その逆だと遅いことが体験によって明らかなのである

 

自分にとって良いことも悪いこともである

 

調子の良い時などは、ほんの少しカミさんに対する意地悪な発想をしただけで、すぐバチが当たる

 

たとえばそんな発想をしたすぐその後に、立ちあがろうとして、いつもはあり得ない場所に脛をぶつけるとか

 

もちろん良い戻りは分かりにくく、悪い戻りの方が分かりやすい

 

つまるところ、過去に生み出した影響を全て引き受けねばならなくて、それが今生きている理由だと思うので、少しでも負債?を増やさず、減らしていきたいし、もしより良いと思われる影響、つまり貯蓄によって相殺できるならそうしていきたい

 

こうやって考えてくると、いわゆる悟りを開いた人というものは、どう逆立ちしても良くないことなど微塵も考えたりしないんだろうと思える

 

またその逆でそのような状態に近づけば、悟りに近いといえるのかもしれない

 

机の足に脛をぶつけているようじゃまだまだだな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

客を選ぶ店

その昔、お客様は神様ですなんて言葉が一世を風靡した

 

確か三波春夫さんだかが言ったのではなかったか

 

僕は転勤族だったので日本全国津々浦々それなりに知っているつもりでいるが、客に対するサービス度についても大きく異なると思っている

 

あくまで私見だが、歴史があって保守的な土壌の街は、概してサービスが良い

 

それは多分客がサービスに対して厳しいからである

 

一方そうではないエリアもあるが、なぜそうなのかはよくわからない

 

客がおおらかだからかもしれない

 

昔ある土地のある店でこんなことがあった

 

注文したものと違う料理が来て、同僚が頼んでいないと言うと、なかったのでこっちにしたと平然と店の人が言い、同僚が激怒した

 

あれは一体どういう感覚なんだろうと僕は不思議に思ったものである

 

昨今では、SNSに客への文句を書き込む店主がいたりして、いわゆる炎上しているそうだ

 

客が店の味やサービスについて評価して書き込むのは多いが、その逆なのである

 

僕はたぶん古臭い人間のせいか、お金を取る以上、店側は客に対してそれなりのサービスを提供すべきであると思っている

 

例えばラーメン店でもいいが、無駄口一切禁止とかって店があるそうだが、そういう店には僕は絶対に行かない

 

店主からしたら精魂込めて作った俺のラーメンを真剣に食べて欲しいという思いなのだろうが、いくらなんでもやりすぎだと思うからである

 

もし無駄口を叩かず真剣に食して、その結果期待を下回ったら、お金をいくらか返すっていうのならまだ理解もするが

 

だいぶ前になるが、近所の蕎麦屋に初めて行った時のことだ

 

常連客らしき客で七割がた埋まっていたのだが、不思議なことに注文するものがどれも切れていると言う

 

入店した時からどうも妙な雰囲気ではあったのだが、僕が最初にビールを頼んだのが気に入らなかったのかもしれない(ちなみに昼間だった)

 

とにかく嫌な気分になったのでビールもキャンセルして店を出た

 

もし常連さん相手だけでいいと言うのなら、店の入り口にでも明示すべきだと僕は思う

 

京都が一見さんお断りとする文化は事前に明言しているから成立しているわけで

 

なのでこのような客はお断りしますとちゃんと明示すれば良いと僕は思う

 

その上でとやかく客が言うなら文句をいえば良い

 

つまりは店と客が対等な関係でいいのだから、互いが気持ちよくいられる方法をちゃんとすればいいだけではなかろうか

 

どなたでもどうぞと開けておいて客を入れてから、後で理不尽な要求を言うのは、たとえ料理のレベルが高くとも店のレベルとして低いと言わざるを得ないし、いずれそのような店はやっていけないだろう

 

一方、客の方も金を払っているのだからという意識はやめて、自分にはできないサービスを提供してもらっているという認識が必要だと思う

 

そこにその店があって食事を提供してくれるからこそ美味しいものがいただける

 

お金は食べられないのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

客を選ぶ店

その昔、お客様は神様ですなんて言葉が一世を風靡した

 

確か三波春夫さんだかが言ったのではなかったか

 

僕は転勤族だったので日本全国津々浦々それなりに知っているつもりでいるが、客に対するサービス度についても大きく異なると思っている

 

あくまで私見だが、歴史があって保守的な土壌の街は、概してサービスが良い

 

それは多分客がサービスに対して厳しいからである

 

一方そうではないエリアもあるが、なぜそうなのかはよくわからない

 

客がおおらかだからかもしれない

 

昔ある土地のある店でこんなことがあった

 

注文したものと違う料理が来て、同僚が頼んでいないと言うと、なかったのでこっちにしたと平然と店の人が言い、同僚が激怒した

 

あれは一体どういう感覚なんだろうと僕は不思議に思ったものである

 

昨今では、SNSに客への文句を書き込む店主がいたりして、いわゆる炎上しているそうだ

 

客が店の味やサービスについて評価して書き込むのは多いが、その逆なのである

 

僕はたぶん古臭い人間のせいか、お金を取る以上、店側は客に対してそれなりのサービスを提供すべきであると思っている

 

例えばラーメン店でもいいが、無駄口一切禁止とかって店があるそうだが、そういう店には僕は絶対に行かない

 

店主からしたら精魂込めて作った俺のラーメンを真剣に食べて欲しいという思いなのだろうが、いくらなんでもやりすぎだと思うからである

 

もし無駄口を叩かず真剣に食して、その結果期待を下回ったら、お金をいくらか返すっていうのならまだ理解もするが

 

だいぶ前になるが、近所の蕎麦屋に初めて行った時のことだ

 

常連客らしき客で七割がた埋まっていたのだが、不思議なことに注文するものがどれも切れていると言う

 

入店した時からどうも妙な雰囲気ではあったのだが、僕が最初にビールを頼んだのが気に入らなかったのかもしれない(ちなみに昼間だった)

 

とにかく嫌な気分になったのでビールもキャンセルして店を出た

 

もし常連さん相手だけでいいと言うのなら、店の入り口にでも明示すべきだと僕は思う

 

京都が一見さんお断りとする文化は事前に明言しているから成立しているわけで

 

なのでこのような客はお断りしますとちゃんと明示すれば良いと僕は思う

 

その上でとやかく客が言うなら文句をいえば良い

 

つまりは店と客が対等な関係でいいのだから、互いが気持ちよくいられる方法をちゃんとすればいいだけではなかろうか

 

どなたでもどうぞと開けておいて客を入れてから、後で理不尽な要求を言うのは、たとえ料理のレベルが高くとも店のレベルとして低いと言わざるを得ないし、いずれそのような店はやっていけないだろう

 

一方、客の方も金を払っているのだからという意識はやめて、自分にはできないサービスを提供してもらっているという認識が必要だと思う

 

そこにその店があって食事を提供してくれるからこそ美味しいものがいただける

 

お金は食べられないのだから