めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想修行の日々

今朝の瞑想は久しぶりに深いものだった

 

面白いもので瞑想の体験と自分の心身の状態が完全に相関するかと言うと

そうでもない

 

たしかに体が非常に疲れていたりすると深い眠りに落ちてしまうし心配事などを

抱えていると雑念だらけになったりもする

 

ただ瞑想前の心身の状態の自覚からきっとこうだろうなと言う予想?が外れる

ことも多い

 

今朝はまさしくそうだった

 

昨晩は次女が久しぶりに帰ってきてなんだかんだで寝たのが12時すぎ

 

朝起きたのが7時

 

まあ寝ているといえば寝ているのだが起きた際はスッキリしておらず

ああまた眠るか雑念かだなと思っていたにも関わらず実際には非常に深い

瞑想になったのだ

 

不思議なもんだ

 

ただ瞑想体験を追い求めることはあまり適切ではないようだ

 

結果として深い体験となることはもちろん望ましいのだろうが

 

要は結果や先を期待せず無邪気にただ瞑ると言うことだ

 

禅でいうところの只管打坐だな

 

道元の言葉を記録したとされる正法眼蔵随聞記を読んでいるが仏門の修行の

厳しさは並大抵ではないと気付かされる

 

とても自分には無理だと思えるのだがその中の言葉には気付かされることも

多々ある

 

例えばどんな酷い人や悪人とされる人にも、厳しく謗ってはならないとある

温かい愛情を持って真理に基づいて導くことが大切であると

 

またこれは理解の範疇を超えている話として

 

二人の修行僧が猫を取り合っている

 

そこへ高僧?が現れ、何か言え、言えば猫を許すが言わねばこの場で殺すと言う

 

二人が何も言わないので猫は斬り殺されると言う話

 

ここにはどうも深遠な意味があって仏道修行に励む者へ真理に気づかせる

と言う目的があってのことらしい

 

その後のことも理解不明の内容が続くのだが

 

まだまだ自分には修行が足りていないんだろうな