めいそうえっせい

色々と心のままに

心の欲求と瞑想 受容するということ

今朝の瞑想は久しぶりに雑念だらけだった

 

だから機嫌が悪い

 

悪いことを自覚しているが

 

まあ多少なりとも成長の跡が見られるのは機嫌が悪いのでそれを

意識の外に追いやる(無視する)という選択をしているくらいか

 

自分と戦っても勝てないから

 

あるがままにしておくくらいしかできない

 

また変化していくし

 

嫌だなあと思えることがある

 

もっとこうなればいいのになあなどと思うことも多々ある

 

全部自分の心次第か

 

ぶつかっても逃げてもどうしようもない

 

ぶつかったら跳ね飛ばされるし逃げてもいつかまたやってくる

 

受容という言葉がある

 

これには少し誤解というか勘違いさせる要素があるようだ

 

受容れると書くわけだが

 

ありのままに受容れようとすると心にストレスがかからないか

 

なぜなら本当は受け容れたくないから

 

どちらかというと判断したり批評することなくただ受け止めるという理解の方が

いいように思える

 

あああるんだなと

 

ほっとく

 

注意を向けない

 

受け容れようと頑張ると逆の方向に行きやすい

 

そのままでいいじゃないかとなれば心は自由でいられる

 

すると少しずつ少しずつそれ自体が受容の対象ではなくなってくる

 

つまりそれが受容したということになる

 

なんか禅問答みたいだが

 

つまり瞑想によって心の深い欲求に気づくようになってくると表層の欲求から

くる満たされない事象に対してなんであんなことに拘っていたんだろうと思える

ようになってくる

 

もちろんこれは簡単なものでもなくて繰り返したり舞い戻ったりしながら円を

描くように徐々に徐々に剥がれていくものなんだろうけど

 

心の真の欲求に目覚めた人は自然の持つ自由に目覚めることになるんだろう

 

行雲流水

 

融通無碍

 

何ものにも捉われない自由な心

 

受容するなんて思いもしない

 

ただ自分の内側から生じるものに身を任せられる

 

次回