めいそうえっせい

色々と心のままに

心の欲求と瞑想

心は感覚器官から得られる情報を元に欲求という方向性を取る事は前回書いた

 

欲求に沿ってコロコロ変わる

 

故にココロ

 

心の欲求という観点から瞑想をすることで何が変化するのか

 

今抱いている欲求はどういう欲求だろうか

 

大して腹が減ってもいないのに食べるという行為はどこから来るのか

 

いつも食べる時間だから?

 

食べなきゃいけないから?

 

なんとなく?

 

あんまりそういうことを考えて生きている人はいないだろう

 

当たり前すぎるから

 

そんなことどうでもいいやって思う人も実際多いだろうし

 

ただそのように日頃の全てが選択されていることには意外に気づかないんだろうと思える

 

全てが

 

瞑想によって心の内側に入っていくことで自分の深い欲求に気付くようになってくる

 

結論から言えば選択が可能になる

 

気づきが選択を可能にする

 

腹が大して減ってないと気づく

 

そしてそれでも食べるか食べないか何を食べるか食べないかを自分のより深いところの

欲求に沿って選択することができるようになってくる

 

心のより深いところとはより自然なところである

 

暴飲暴食を繰り返しそれを抜け出せないということは心のより深いところの欲求に

気づけないでいるから

 

ダメなことは分かっていると言うかもしれない

 

もちろん頭では誰もが分かっている

 

ではなぜ止められないか

 

選択できないからだ

 

頭で分かっているダメだと言う情報は自分で気づいたものではない

 

何かで読んだか、他人に言われたかした外からの情報に過ぎない

 

自分で気づいたものではないから

 

つまり自分の真実=知識(情報)になっていない

 

他人の真実なのだ

 

瞑想は自分の真実に心を開くことで選択を可能にする

 

そうやって生まれてからずっと他人が自分の中に置いた真実をそれが自分の真実

であるかどうか一つずつ吟味しそうでないものは手放し自分の真実を言えるもの

を残していくことが瞑想によって可能になる

 

より深いところで自分が変わっていく

 

薄皮が剥がれるように

 

水前寺清子の365歩のマーチ(古い)ではないが3歩進んで2歩下がるみたいな

もので一直線に前進するものではなく行って戻りを繰り返しながら少しずつ進む

 

そしてそれで良いと思えるようになってくる

 

自分の心の深い欲求に気づきそれに沿って生きられるようになってくるとどうなるか

 

まず振り返ったときに自分が行った選択を後悔することはほとんどなくなる

(正直に言うが自分は家を建てた場所を後悔している、ただそれはそこに決めた

 時の選択のありようが自分の心の真実に気づけていなかったことに由来する

 つまりもしその選択が心の真実の選択だと思えたなら結果的に同じ場所で

 あっても一切後悔はなかっただろう)

 

もちろん罪悪感など皆無になる

 

なぜなら自分の選択が自分の真実に照らしたものであることを疑わないから

 

例え結果が自分にとって望ましい(見かけ上)ものでなくてもだ

 

あるいは他人がこうしておけばもっと良かったのにと言ったとしてもだ

 

これは実は凄いことだ