めいそうえっせい

色々と心のままに

遊びの達人

遊びの達人になりたいなと思った

 

融通無碍という言葉があるが自分の中では遊びの達人のイメージに近い

 

本質的なところで自由

 

何にも囚われるところがない

 

何をしても楽しい

 

遊びが楽しいものだとするなら全てが遊びになる

 

人生のすべてが遊びになったら多分それは啓発に近い(あるいは啓発)のかな

 

ある番組で巨人からロッテに移籍した澤村投手のことをやっていた

 

彼はしなければならないことをヤメタと言った

 

アウトコース低めやインコースに投げなくちゃならないと例を挙げていた

 

解説者か誰かが巨人の勝たなければならない重圧から解放されてロッテに

行き開き直ることが出来たのではと分析していたが

 

もちろん契機としてのその一面もあるだろう

 

しかしプロである以上勝たなければならないプレッシャーは常にありしかも

彼はロッテに拾ってもらったような向きもある

 

巨人で一時エースを張っていた意地やプライドもあるだろう

 

このまま終われない

 

家族もいる

 

自分は決して都落ちのようにロッテに行ったことそのものが良かったとは思わない

 

つまりこれはロッテから巨人に行くような場合でも当てはまるだろうということ

 

契機に過ぎない

 

もちろん彼はリセットした

 

その時間があった

 

自分を見つめ直した

 

そして囚われている自分に気づいた

 

その意識が自分を縛っていると

 

自分から自由を奪っていると

 

それに気づいた彼は自由を取り戻した

 

ここからは特に推測

 

まずは生きたボールを投げよう

 

それが元々自分の強みであり良さじゃないか

 

小細工などいらない

 

そして思いっきり腕を振り狙ったところに投げ込むことを思い出した

 

もちろん狙ったところに行かないこともあるだろう

 

それはそれでしょうがない

 

たまに甘く入ってホームランもあるし逆に打ち取れることもある

 

厳しいコースがつけたからといって絶対打ち取れる保証などない

 

納得いくボールを投げるのみ

 

それで満足だ

 

遊びと似てないか

 

酒やギャンブルはどうなんだろう

 

楽しいだろう

 

だから遊びだと言える

 

問題はどこかの時点から楽しくなくなってツラくないかだな

 

それに

 

酒を飲まなきゃ楽しくないってのは逆転してるだろう

 

ギャンブルに行かなきゃ楽しくないってのも同じく

 

すでに囚われてしまっている

 

誰かが言っていた

 

パチンコやら競馬やら麻雀で儲けようとするから遊びじゃなくなる

 

儲けるのは仕事だ

 

遊びは金を使って楽しむもんだって

 

そこらへんだなキモは

 

酒だってギャンブルだって遊びであれば遊んでいられる

つまり金を使って楽しんでいられるのがいいね

 

今こうやってブログを書いているのも脚本や小説まがいのものを書いているのも

そして瞑想修行も

 

実は遊びの達人につながるのではないかと思えるのだ

 

好きなことを好きなように書く

これほどの自由はない

 

瞑想によって自分の内側にある純粋な創造性の場に赴く

これほどの自由を感じる時間は他にない

 

よく考えると凄くないか

 

数回前にここで小説創作のカルチャースクールに入ったと書いた

 

次までに書いたものを提出「せねばならない」

 

恐るべきことに自分はすでに遊び感覚をなくしているのだ

 

提出のプレッシャーを感じ始めている

 

プロになろうってわけでもないのにだ

 

パチンコで言えば金払って遊ぼうってのに心では儲けなきゃならない

負けたらどうしようって思ってるのと一緒だ

 

こりゃいかん

 

以前書いた短編でもいいから早いとこ出して楽になろ