めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想修行の日々

今朝、ドトールでコーヒーを飲んでいたらすぐ近くにいた若い二人連れ(と言っても30代か)のうちの一人が携帯電話を始めた

 

凄く気になるのだ

昔から

 

なぜだかはいまだに分からない

 

自分は決してそのような場でしないからか

 

中には全く気にならない人もいるようだ

 

昔、部下だった北海道出身の男はカフェだろうが電車だろうがお構いなしに

携帯電話で喋っていた

 

その男は人の気持ちも分からない非常識な唐変木かというと決してそうではない

至って常識人だし気のいい奴だった

 

なぜだろうと考えていて思いついたことがある

 

彼は他人が同じようにしていても一切気にならないのだと

 

北海道の人だからかいい意味でおおらかなのだ

そして神経が図太いのだろう

 

一方、自分は一切しないが他人がやっても気にならないという

人もいるだろう

 

自分の女房はその類かもしれない

 

多少非難めいたことはいうかもしれないが基本気にしていない

タイプだ

彼女も神経が図太い

 

自分は自分もしないし他人にもして欲しくないタイプだ

(これが一番多いかも)

いわゆる小市民タイプか

 

まあ取り立てて注意したり文句を言ったりすることもないのだが

席を立ったり、変わったりすることはよくあったものだ

 

それが今日は不思議なことに一瞬席を変わるか店を出ようかとも

思ったのだが(実際に近くにいた女性はすぐ店を出た)

まあもうちょっと待ってみるか

となった

 

不思議なことにそう思えるとあまり気にならなくなってくる

 

結局かの若い男は二本の短い電話を終えたところで、待ち合わせらしき

一人の男が現れ三人で商談めいたものが始まってそれ以降の電話は

なくなった

 

その後10分ほどして昼食を買いに店を出た

そして考えてみた

なぜ我慢したのか、我慢できたのか

 

「反応」という言葉が浮かんだ

 

我々は外部の物事に反応して生きている

 

反応の仕方は人それぞれだ

 

誰もが自分の反応を「当たり前あるいは正しい」と思っているだろう

 

意識的に行う反応と無意識に行う反応がある

 

自分は今回意識的に反応したと理解した

 

行動を選択したのだ

 

無意識に反応すれば選択できない

 

もちろん生きていく上で危険回避行動など無意識に反応することは

あるだろうしそれは本能と呼ばれるものだろう

 

ある本で自分の意識から生み出される考えや言葉、行動がどのように影響を

及ぼすかについて読んだことがある

 

この世の全てはエネルギーであり、それが自分に取って肯定的なものか

否定的なものか、どう決定付けられるのか

 

物理学で学んだようにエネルギー保存の法則があり我々の全ての動き(考えも

含めて)はエネルギーを外部に放出していて、形は違うかもしれないものの

それは同じエネルギーで自分のもとに還ってくる

 

我々は常にそのような形で「創造」している

よくよく考えてみるとこれはすごいことだ

 

何を創造するか、したいかは自由だ

 

自分の信念に照らし創造したいものを意志を持って意図的に

創造する

創造し続ける

 

そのような自分でありたい