めいそうえっせい

色々と心のままに

定年後の男の孤独感

今朝孤独を感じた

 

昨日久しぶりに旧友に会って昼飯を食いながら色々話したせいか

 

彼は会社を早期退職し個人で事業を営んでいる

 

と言ってもこのコロナの影響は如何ともし難く事業の支援金申請が下りるのを

待っている状態らしい

 

タフな男だ

 

全くめげていない

 

交友関係が広く物怖じしない性格でどんどん突っ走る

 

彼の生き様と自分を比べてしまったかもしれない

 

定年後の男の孤独感が時折顔を出すのだ

 

以前孤独についていずれ書くとしていた

 

ちょうどいい機会だ

 

結論から言おう

 

孤独と孤独感は違うということを理解すべきであるということ

 

孤独そのものはあり得ない

 

孤独であるという感覚はあるだろう

 

問題はその先だ

 

孤独であるという感覚がどういう感情につながるか

 

喜び、悲しみ、怒り、切なさ・・・

 

もちろん孤独であると想像し世を儚むということも出来るだろう

一方では孤独という状態におかれながら世の中全てとつながっている

という一見相矛盾する感覚を持つこともある

 

もちろん自分も孤独を想像するとそれだけで怖ろしい

 

つい先日テレビでコロナによって社会と遮断され家に閉じこもって

悶々とし孤独を強く感じているような人々に対して精神科医の方が

創造することと気づきの大切さを述べておられた

 

どれだけの人々が理解できただろう

 

孤独を「想像」し、実体のない孤独を「生きて」しまってはいないか

 

日頃友人知人に会ったり職場で様々な人間関係を持っていることが

「孤独ではない」ことなのか

 

そしてそれがなくなると「孤独」になるのか

 

自分が瞑想によって気づいたことはひとはもともと根源的なもの

とつながっているのだということ

その体験があるために孤独感を紛らわすためのいわゆる人間関係は

真に必要ではないということ

 

もちろん人間関係そのものが不要と言うつもりは全くない

それどころか人と人との結びつきや信頼関係というものは

深く築かれるべきだと思う

 

それに依存しないということ

 

孤独と結びつけないということ

 

想像上の孤独を作り上げて自分は孤独であり社会と断絶しているとか

何の役にも立っていないとかという幻想を抱かないということ

 

そんな幻想は存在しないこと

 

ひとは本来無敵であり存在しているだけで価値がありすべてとつながって

いるのだ

 

それに気づくと何が生まれるのか

 

幻想という想像ではなく創造だ

 

ひとが動物とは違う最も大きなことは創造できることだ

 

ひとが何かを創造するときそれは全てとつながっている瞬間であり最も

それを意識できるときなのだ

 

自分の好きなもの得意なものを何でも創造すればよい

 

落語家さんが家に篭っているのでマスクを手作りで作成し寄付するという

ことをやっていた

あれは誰かのためにとやっているのだが実は自分のためにやっているのだと

気づいておられると思う

 

SNSで何かを発信したり意見を述べるのもいいだろう

文章を作成するのも創造だ

 

ただし内容は心から「喜べる」ものにした方がよい

喜びを外に出すと喜びがかえってくることになる

批判的なものは自分自身を傷つけることにもなりかねない

どうしても批判的に書きたければウイットに富んだものを

創造してみることだ

ブラックジョークでもよい

 

それを考え創造している瞬間は孤独ではないことに気づくだろう

なぜならすべてとつながっているから

 

定年後の男の孤独感も同じなのだ

孤独を想像しその感情を生きることはできる

 

が、それをしないという選択もできる

 

瞑想をしすべてとつながり自分の好きなことを創造するのだ

(このブログもその一つだ)