めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想修行の日々

なんとなくだが自分のやりたいことがおぼろげに見えてきた

 

もちろん瞑想による修行が中心ではあるのだが

 

瞑想が静とすれば動は何か

 

瞑想だけしていれば良いわけでもない

 

大好きな白隠さんはある程度修行が進んだのちにある師から

山に入り草木と共に朽ち果てよと言われる

 

坐ることに全てを費やせということだろう

 

いわゆる悟りを開いた=啓発されたひとは意識のより高い状態

を目指しそのような生活に没入して行くのかもしれない

ヒマラヤの聖者もやはり山で隠遁生活を送っているらしい

 

自分のような俗人はどうすればいいのだろう

 

今のところただ瞑想を続けるより答えはない

 

しかしながらでは一日中瞑想をしていればいいのかというと

多分違う

 

そこまで意識が発達というか進化というか

していないと思うのだ

 

瞑想状態で経験することのある静寂とも言える意識状態が

動的状態でも維持されることが大切なのだろうと頭のどこか

でわかっている

 

白隠さんの本によく出てくる禅でいうところの自分の得た悟りの

境地は最後には大悲という究極の慈悲心に行き着くという

 

これはイエスキリストが歩んだ道と似てないか

 

聖書に詳しくないしイエスが歩んだ道についてもよく知らないので

違っていたら謝るしかないが

 

少なくともイエスが迫害され弟子に裏切られ・・ゴルゴダの丘?を

十字架を背負って行き処刑される話はよく知られているしイエス

それを知っていてあえてそれを受け入れたということなどもそう

 

誰にもできないような生き様をあえて見せることによって人間の究極の

意識状態を示したのではないだろうか

 

眠ったように生きている人々に目覚めよと言っているのはそのこと

なのではないだろうか

 

意識の覚醒を得た先達の多くはそのような生き方をして人々に

あなたもできますよと伝えているのではないかと思う

 

翻って自分だ

そうなりたい

 

少しずつでも前進したい

静と動

 

静が動に染み渡り動中静ありという状態がまず理想であろう

 

そのためにも動をどうするかということだ

 

動が静的になる

 

自分の今の答えは内側にあるものを外に出すということ

 

つまり創造性の発揮だ

 

人間が動物とは異なる唯一のものは創造性だ

 

不思議なことに物語を紡ぐことに喜びを感じ始めた

 

様々なストーリーを考えることが楽しくてしょうがない

 

自分の中にあるものを形にして世に送り出すということは

いわゆる芸術の基本的欲求なのだろうがそんな高尚な話

でもなく単純に面白いのだ

 

今、脚本を2本、落語を2本書いている

 

そして表現形として自分い合っているのは落語的なものだと

いうことが最近分かってきた

脚本は映像化が前提なので背景や心情など詳細を文章で説明

することには向いていない

その点、落語とかラジオドラマは小説的要素を兼ね備えて

いて適度に背景や心情を言葉で説明できる利点がある

最近有名な神田松之丞という講談師なんかもそうだ

講談の形も基本は小説みたいなもので物語を背景含め

語っていくわけだ

ある意味友達同士でやっていることと変わらない

ストーリーテラーの腕前次第だ

あの神田松之丞(名前が変わったが忘れた)という人がすごい

のはやはりテラーとしての臨場感と何よりあの表情だろう

立川談志もそうだったが一流の芸につきものなのは何より顔ではないか

 

そんなことをいうと顔次第となるがあながち間違っていないだろう

逆にいえば生まれ持っての顔が才能ということかもしれない

大谷翔平だって生まれ持っての背丈や体の柔らかさ、運動神経が

なければああはならないだろう

 

見せる(魅せる)

ということでいえばやはり顔なのだ

 

自分などはもちろん普通の人と同じくそんな顔をもっちゃいない

 

かと言ってダメかというとそうでもない

内側には自分でも驚くようなものがあるかもしれない

 

それを見つけることは素晴らしいことだ

ということを創造力に乗せて発信して行くこともまた素晴らしい

 

ワクワクする

 

自分にとっての動的な修行?なのかもしれない