めいそうえっせい

色々と心のままに

白隠について

白隠が好きだ

 

白隠とは禅(臨済宗)のお坊さんである

慧鶴白隠(えかくはくいん)という

幼名は岩次郎

静岡県沼津の出身

 

以下はおおいみつる氏の書籍からの受け売りである

 

若くして出家し悟りを求め諸国修行の旅をする

禅とは悟りとはを頭で考え知識ばかりが膨らんでいかにも悟った風な

生意気な坊主となりかけるが長野の正受老人(道鏡慧端)と出会い

厳しく諭され本来の修行に目覚める

あまりに厳しい修行を続けたために精神が主因と思われるいわゆる「禅病」

にかかる

治療を求めて病んだ体を押して諸国を訪ね歩くがどうしようもない

岐阜の山中に至りいよいよ死ぬしかないかと覚悟を決めた時にふと山奥の

仙人の話を耳にする

ワラにもすがる思いで尋ね白幽と呼ばれるその仙人に必死に懇願しとうとう

原因と秘法とされる養生の方法を教授される

それらの方法はのちに白隠が「夜船閑話(やせんかんな)」という書物で著す

大変失礼ながらこんなような話になっている

 

己の道を目指す白隠の一心さに心打たれるものがある

そして誰もが陥りやすいようなニワカ悟り顔をしてしまうところなんかも

人間臭くて身近に感じる

(おおいみつる氏の表現力によるところも大きいとは思う)

 

実は道鏡慧端も好きだ

当初白隠に対する厳しさは想像を絶するものがあるがそれはのちに真の愛情

であったことが分かる

自分自身の修行にも徹底しており様々な寄進や名誉などをことごとく断り己の

道を貫いた

 

後に今の禅があるのは中興の祖とされる二人がいたからとされている

 

ちなみに白隠は「坐禅和讃」をいう書物も著している

坐禅の素晴らしさを詠ったものだ

その解説書的な本も多数出版されているがその解釈には著者によって相当な開きが

あるように思える

 

いわゆる学者的な方のものは失礼ながら上っ面をなぞっているように見えてしまう

一方禅のお坊さん(もちろん白隠の直系の弟子にあたると思われる)が書かれたもの

は文章は平易ながら意味が深く全てを真に理解するのは困難である

自分がその段階で達していないのだと分かる

 

瞑想は禅とどう違うのか

一説には瞑想はもともとインドが発祥でありサンスクリット語でディヤーナと

発音されておりそれがチベットや中国を介して日本に伝わった際に「ZEN』と

なったとも言われている

つまり根っこは一緒なのかもしれない

 

確かに仏教の教本(経?)や先の坐禅和讃にも日本語ではなくサンスクリット語

当て字にしたものが多い

 

ただ自分は坐禅をしたことがないので瞑想とどう違うのかよく分からないが

 

目指すものは同一だろうとは思っている

 

いつか白隠や慧端の修行したお寺に行ってみたい

特に慧端が当時のお殿様からいただいた三角の鉢を見てみたい

 

定年して時間があるのでコロナが終息したら一人旅でもするか