めいそうえっせい

色々と心のままに

定年後の生活

定年して2ヶ月近くになろうとしている

 

コロナ禍のため自分のみならず世間が隠居生活の様相なので

なぜかあまり定年した実感が湧かない

 

しかし家族以外に面と向かって会話したのはかれこれ1ヶ月くらいは

ないだろう

電話で数人と話しているくらいか

 

先日昔の仕事関係の仲間から誘いがありオンライン飲み会というものを

初めて経験した

 

自分以外の3人は皆現役だ

 

まああれはあれでアリかとも思ったが話題が尽きた時の一瞬の間が何とも

寂寥感というか虚しいというかふと我に返る感じがある

顔を合わせていても同様な事は起こるがそれとは本質的に異なる感覚だな

例えば宇宙で地球と交信したときに画面で家族やら友人と会話しているとき

は嬉しさやら何やらで今宇宙にいることを一瞬忘れるかの如くで

ふと「そうだ。おれは今宇宙にいるのだ」と再認識したときに「・・・・」

となるような

 

大袈裟か

 

さてそれはいいとして

現役の彼らから定年後どうしているのかとしつこく聞かれた

隠れ家の事は以前メールのやり取りで伝えてあったので何か事業でも

やるのかとか女性関係がとか様々な憶測で聞いてくる

 

もちろん正直に答える

 

特段のやる事は何もない事

ものすごく古く狭い部屋を借りていてそこには机と椅子とPCが

あるだけである事

目的は家を出て行くべき場所を確保したかった事

自分のためにも女房のためにも大切な事だと考えた事

などなど

 

なかなか理解してもらえない

 

自分以外の3人のうち1人は同い年でありこの6月に定年だそうだ

本当は65まで働くつもりでいたらしいがどうも会社からの要請らしい

厳しい世の中だ

 

あとの2人はアラウンド50なのでまだまだ実感はないだろう

 

そして皆口を揃えて言う

70くらいまでは働きたいと

 

なぜと聞くと自分の同期は社会との接点を保っておくことが大切だと

仕事を辞めてしまうと情報や何やらから取り残される的な話らしい

 

もう1人の50くらいの現役のやつも親父が80近いらしいが今でも

一日置きくらいに会社に行っていると

まあ自分が代表している会社らしいが

 

これらの話をじっと聞いていたのだが自分の考えというか思いとは

大きくかけ離れていることに気づいてハッとした

 

このブログの最初の頃に書いたが会社を辞める前は焦りがあった

一日中家にいる生活、誰とも会わない話さない生活、行く所のない生活

やることのない生活・・・になるのかと

前任の先輩は辞めてからこう言った

自分は趣味が多く辞めてかもあれやろうこれやろうなどと様々なことが

浮かんで実際やってみた

ところがそれらをやってみても時間が余ってしょうがない

そしてそのうちのいくつかは飽きてくる

もっと前から退職後の準備を始めておくべきだったと

1年では足りない

最低3年は必要だと

 

このような先輩の話もあって自分も時間がない

自分はさらに趣味など何もない

交友関係も狭い

何とかしなくてはなどと考えたわけだ

 

ただ自分にとって救いだったのは瞑想を続けてきたことだ

元々瞑想の道を進みたい、究めたいというような思いが心のどこかに

あったため60を区切りとしてあと何年生きられるか分からないが

可能な限り瞑想の道を追求してみようと思えたことだ

 

確かに彼らが言うように社会との関係性を保つことも大切なことだと

思う

しかしよくよく考えてみると現代のようなネット社会では関係性を断つ

ことの方がむしろ難しいように思える

 

あくまで想像だが彼らも仕事を辞めて何もなくなることが怖いのだ

仕事という接点で誰かと繋がっていたいということなのだろう

人は寂しがりだから

 

そして孤独という問題に突き当たる

 

会社や仕事を辞める

人間関係が希薄になる

自分という人間が必要とされなくなる

という思い込み

これが孤独だという思いにつながる

 

これは深く大きな問題だ

 

一言で言えば定年後をみな恐れる理由の最大のものはこの孤独ということ

なのだろう

 

この孤独という問題は真実なのだろうか