めいそうえっせい

色々と心のままに

定年後の日々

辞めて4ヶ月だというのにやっぱりよく仕事というか会社の夢を見る

 

何となく情けないような気持ちになるのだが一方で人生の2/3にもなる40年近くを

会社生活に捧げてきたのだからしょうがないとも思う

 

昨晩は月一回の昔の仲間4人との定例オンライン飲み会だった

飲み会と言っても自分はほとんど飲んでないが

同い年のKさんは先月までで退職しこれからどうするかというところ

彼は以前も仕事をしていないと社会から断絶するようで怖いとよく言っていた

今の時代、情報が溢れんばかりで逆に断絶するのが難しいと思うのだが

多分彼の本音は他人との接点のことだろう

 

ネットニュースを見ていたら定年後(自分も読んだ)の著者がインタビュー

を受けている記事があった

言っていることは本の中身とほぼ同様で定年後の親父たちが行く場をなくし

図書館やスポーツジム、カフェなどを彷徨っている・・・

そしてその特徴は一人きりということ

 

全くその通りだと思う

都会型の定年親父の典型だろう

田舎(本物の)なら色々とやることもあるし見つけられもするだろう

極端な話、不自由な暮らしは時間が必要になる

薪で湯を沸かすなんてのは代表的なものだ

薪を切ってくるところから始まって火を起こし見張って薪をくべて

これだけで数時間はかかるだろう

慣れてなきゃ1日仕事だ

 

都会型はなかなか厳しい

何しろ便利でなんでも揃っている

食い物はコンビニでも店でもいつでも手に入る

スイッチ一つで快適になる

 

手がかかるのは、掃除、洗濯、メシ、食器洗いくらいのものだ

これとて少人数ならあっという間に終わる

 

先のKさんは昨晩こう言った

気持ちよく遊ぶ(彼はアウトドアが好きだ)ためには辛い仕事が必要だと

なるほど一理ある

 

しかしちょっと待てよ

仕事がないと遊びが遊びとして楽しくないというのは遊びじゃないような

それはやはり仕事中心主義の考えじゃないのかと

 

結局仕事ばかりで真面目に遊んでこなかった(遊べなかったあるいは遊ばせて

くれなかった)ことがまず一つ、日本においては遊ぶ環境が非常に乏しいと

いうのがもう一つ

 

まあ今更遅い

肝心なのはこれからだ

遊びは少なくとも仕事(生活のための)と違って心から楽しいと思えるもの

じゃなきゃいけないだろう

先のKさんはアウトドア派でキャンプや山登りなんかが好きだ

ワイワイじゃなく一人ででも行くというから本当に好きなんだろう

自分も決して嫌いではないがどうしても行きたいかと言われると

そこまででもない

はっきり言えば友人なので付き合ってあげたいが無理して付き合う

年齢でもない

昔何かの本で歳を経ていくごとに義理を切っていくべきとあり妙に同感した

覚えがある

人間関係を大切にすることと無理をして義理立てすることは別だという考え方

理由は単純で無理をすればそれをどこかで埋め合わせたくなるからだろう

自分は無理をしているのだから相手にも無理を聞いてもらいたくなる

相手への真の愛情から何かをしよう、してあげようというのは義理ではない

真の友情(親友)とはそういうものだと学んだことがある

 

だから義理で付き合っている友人知人は全て単なる知り合いということだ

たまに会えば話をしたりメシ食ったりする程度のもの

自分もこの歳になって見渡せばそのような関係ばかりだなと思い知った

 

愛は自分が与えるやり方でしか相手の愛は受け取れない

とある本で読んだ

その通りなんだろう

 

だから相手に何か与えてもらうことを期待するのではなく自分自身の内面

を磨くことしかないのだ

 

そのための方法論は自分の場合は瞑想である