めいそうえっせい

色々と心のままに

精神的修行に適した場所と真理を得るために必要なもの(ひと) 2

前回の続き

 

まず持って師と仰ぐような聖人にも様々なレベルがあるのだろう(と思える)

 

閑話休題

今、隠居部屋に秋を思わせる涼風が流れてきた

本当に気持ちいい風だ

室温は多分35度前後だと思うが、例のレオンポケットで凌ごうとしていた

ところ秋風だ

やっぱり当たり前だが自然には勝てない

こんな気持ちのいい風はどんな高価な機械(エアコン)も作れやしない

幸福だと心から思える瞬間だ

 

さて、本題に戻す

 

真理が自分の内側にあるのならなぜ自分に適した師が必要か

 

真理を求める精神の道は、ともすると横道に外れやすい一面がある

 

昔、あったオウム真理教などは典型例だろう

 

中身に詳しいわけではないが、本来の小さな我を超えて大きな我に目覚める

という精神修行の道が、知らぬ間に小さな我を肥大化させる結果になって

しまったのではないかと思える

 

それだけ自分も含めてまだまだ精神的に幼若なレベルは真贋を見分けることが困難である

 

自分の内側にある真理に辿り着くために、適切な知識と指導でもって横道に外れないよう

に導いてもらうことは非常に重要なことだろう

 

もちろんとんでもない紆余曲折を経て何か問題があるかというと多分ないのだが

 

しかしこの相対世界では時間は有限である

 

回り道をしてはもったいない

 

では、自分固有の師に巡り合わねばならないか

それこそヒマラヤに行ってでも

 

自分の考えはこうだ

 

ヒマラヤでもどこでも探したければ行って探せばいいと思う

 

それだけの熱量が内側にあってその思いを無駄にすることはない

 

求める師に出会える可能性もあるだろう

 

ヨグマタと呼ばれる相川圭子氏は、精神世界を追求し、ヒマラヤまで行って師に出会い

修行を積んだとされている

 

彼女も日本に戻って様々なセミナーや著書などで自分の得た知識を人類のために広めよう

とされているようだ

 

いずれにせよ、まずは自分の心がそうだと微笑むものを求めたらいいのではないだろうか

 

先の自然が与えてくれる秋風のように

 

真に気持ち良いものは自然と分かるだろう

 

そこから入り、自分の精神修養が進むにつれて様々な理解が深まっていくだろう

 

赤ん坊が言葉を徐々に覚えていくように

 

気をつけなければならないことがあるとすれば

 

「何か」を崇め、信じさせようとするものは危険かもしれない

 

真に信じるべきは自分の内側にある真理に他ならない

 

そして真理とは全ての始まりに存在したものであり、それを私は自分自身にそれを

見出しました、そしてそれはあなたの内側にもありますよ

 

と教えてくれる人を敬うものであっても

 

だから私を信じなさいとは決してその人は言わないだろうから

 

 

つまり自分が信じることがあっても信じ「させよう」とはしない

 

微妙だが決定的な違いである

 

怪しく危険なものはあらゆる手法で信じ「させよう」とするだろう

 

少しでもそのように感じたら自分の感覚を信じるべきである

 

そして一旦距離を置けば良い

 

慌てることはない

 

いくらでも道は見つかるしすぐそこにあるかもしれない

(ヒマラヤに行かなくとも)

 

横山やすしではないが、一生懸命メガネを探していたら自分の頭に

かけていたようなものだ(古すぎるか)

 

自分の場合は、このブログで書いてきたように、若い頃原因不明の不眠症

きっかけで瞑想を知り、ずっと続けてきただけの人間だ

 

ただ不思議なことに、それが様々な洞察や理解を生むことになった

 

そして真の精神修行へと向かわせることとなったのだ