めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想に対する知的理解

瞑想というものはとかく日本では誤解されやすいことは承知しているが

本来純粋なテクニックである

 

いわゆる技術である

 

それが宗教的要素と結びつき変な方向へとねじ曲げられることがある

 

なぜそのようなことになりやすいかを考えてみるに

 

瞑想中もしくはその後の体験が何らかの超自然的なものであると思い込む

もしくは思い込まされるために起こりやすいのではないか

 

O真理教などはまさしくその典型だったろう

 

変な方向に行かないための見分け方として絶対ではないが一つの指標がある

 

この世の何か、あるいは誰かを信じなさいという類のものは危険かもしれない

 

この現象世界には絶対はない

 

全てが移ろいゆく

 

自分にとっての真実は自分の内側にしかない

 

経典と呼ばれる書物にあるものさえ自分の内側の真実に照らしてみるべきだ

 

問題は自分の内側の真実をどう知るかだ

 

座禅や瞑想はそのために編み出された(発見された)技術である

 

ある種の祈りや踊りなどもそうかもしれない

 

バリ島にケチャックダンスという神事的踊りがあるがあれなどは繰り返される

独特のリズムと踊りによって意識の集中的な状況を作り出そうとしていることは

明らかだ

 

ロウソクの炎を見つめるではないが、意識を一点に集中させていくことで相対的

領域を超えるのが目的だ

 

あくまで自分の理解だが、お坊さんがあげるお経も本来はその目的だったと思う

 

お経自体はインドのサンスクリット語(最も古いと言われる言語)を日本語の

当て字にしたものである

 

幼少期にお経を見様見真似で覚え・・・ぼでぃそわか・・・と言っていたことが

今になってあれはサンスクリット語で悟り(ボディ)成就(ソワカ)だったんだと分かる

 

つまり死者を弔うための祈りではなくこの世を超えて絶対を知る(悟り)ために

行っていた祈りだったのだろう

鐘や木魚なども一つのリズムを作り出し精神集中を助ける意味がある

 

お寺の鐘は時刻を告げるためにあるという実際的な役割もあろうが瞑想の観点から

すれば、あの長く響く鐘の音には古から異なる意味があったのではと思える

 

寅さんの映画を見ていると、帝釈天の鐘を叩くシーンは夕方ばかりだが朝夕に

鐘の音を聴いてこの世が無常で相対であることを思い

鐘の根の先には絶対があることを思う

 

年末の108つの鐘の音には煩悩を打ち消す意味があると言われているが

これも瞑想的に言えば108回相対界を超えることによってこの世の過剰

な欲求とそれがもたらす苦悩から「離れられる」とされているのかも

しれない

 

話は最初に戻るが瞑想はあくまでテクニックであり技術である

 

座ってじっとしていることが苦手な人は違うテクニックなり技術を探せば良い

 

ただこの魅力に溢れた相対界にはどうしても自分たちの五感は外に囚われて

しまい内側に向かうことはない

もちろん相対界がダメだとか悪いと言っているのでは全くない

 

自分たち人間がこの世に生まれてきた意味があるのかないのか

 

自分も含めた今いる人々に間違いなく言えることは一つ

 

必ず死ぬということ

 

死ぬために生まれてきたと言う人もいるが生まれてきたのは単なる偶然

だったのだろうか

 

ビッグバンにより宇宙が生まれ何らかの偶然?により生物が生まれ今現在

自分たちが意識を持ってこの世に生きていることは何の意味もないのだろうか

 

自分は長年の瞑想によってだろうと思うが輪廻転生を信じている

 

ただそれは人に押し付けるものでもない

 

自分にもわからないことだらけの世の中であるが一つだけ言えることがある

 

宇宙とは何か

 

宇宙がビッグバンによって生まれ膨張し続けていると言うのが今の科学者の

見解らしいが、ではその外側には何があるのか

 

ビッグバンの前には何があったのか

 

何もないとするなら何がそれをもたらしたのか

 

何もないとはどう言う意味か

 

どう考えても自分たちの理解力には限界があることを認めざるを得ない

 

瞑想はこの世では限界があることを認識した上で明らかに相対的意識を超える世界が

存在することを直覚的に意識する手段なのだろう