めいそうえっせい

色々と心のままに

こんな寒々しい日は死を意識する

今日は急に冷え込んだ

 

隠居部屋も寒い

 

なので家から車で遠赤外線ヒーターを持ってきた

 

大正解だった

 

なかったら寒くていられない

 

陽があるときはいいんだが今日みたいな曇り空だとどうしようもない

 

寒々しい曇り空の時は色々と頭を過ぎる

 

今還暦、20年もしたら80だ

 

間違いなくその時は来る

 

死んでない限り

 

そして死も間違いなくやってくる

 

そう、間違いなくだ

 

死を恐れなければ生も恐れない

 

輪廻転生を信ずる自分としては死は一つの通過点と考えている

 

神は自分に似せて人間を造ったとされている

 

神は人間を通じて自分が神であることを体験したいのだと何かで読んだ

 

神は絶対的存在であり絶対には絶対ではないものがない

 

それゆえに相対世界を創り相対界で自分以外を体験できる人間を造ったと

 

エスキリストは自分は神の子でありあなた方もそうだと言った

 

相対界のこの世が無常であり千変万化するものであることは理解できる

 

変わらないものなど何一つない

 

モノとしてだけでなく、関係性や感情など目に見えないものも同じだ

 

絶対と信じていた大切な人との愛情でさえ変化しうる

 

そうなると自分たちは一体この相対界で何をしようとして生まれてきたのか

 

何の目的もなくただ偶然に生まれ必然として死んでいくのか

 

死んだ先には何があるのか

 

何にもないのか

 

生命はなぜ生まれてくるのか

 

意味も目的もないのか

 

ではなぜこの広大な相対界である宇宙が存在するのか

 

自分たちが見上げる空の向こうには何があるのか

 

果てはあるのか、それともないのか

 

あってもなくても理解不能だろう

 

それは紛れもなく人類にとって理解不能の世界が存在する証ではないのか

 

多分そうなんだ

 

自分たちが見ているものは常に変化している世界だ

 

一瞬たりと止まってはいない

 

止まっているように見えてはいるが

 

これは何を意味するか

 

無常だ

 

変わりゆくものに変わらないでくれと頼んでも無理な相談だ

 

全ては変わりゆくということ

 

この世の生命でさえも

 

我欲を持つなと言われている

 

我欲を消し去るのが精神修行であると

 

108つの煩悩なんて言われたりもする

 

人間には様々な欲がある

 

道元さんの教えを記したとされる正法眼蔵随聞記には禅によって仏法を学ぶ

者は欲を全て捨てろと書いてある

 

金品の類は全て不要、それどころか持ってはいけない

 

最低限の衣類と托鉢で使う器のみで後は不要

 

清貧を宗とすべし

 

お腹が空いてどうしようもない時に座禅してずっとご飯のことを考えていたら

修行になるのだろうか

 

このような在世の人間の質問に対しそれでも仏法に集中しろとある

 

凄い教えだ

 

自分の理解はこうだ

 

欲はカルマ(業)を生み出す

 

良いカルマも悪いカルマも

 

カルマは人間が生まれ変わるもとになる

 

逆に言えばカルマを成就?するために生まれてくる

 

成就すれば欲が消える

 

一つずつ

 

欲とは足りないという個の思いだ

 

ゴルフを例にとってみよう

 

ボールをどこに運びたいかを考え、イメージし、構え、スイングする

 

それだけのことだ

 

ある意味歩くのに似ている

 

ただ目的地に向かって歩くのに努力はいらない

 

右足から出るか左足から出るか、どの程度の歩幅が妥当か、手はどの程度

振るべきかなどと考えて歩く人はいない

 

ところがこれに欲が絡んでくるとそうもいかない

 

欲とは結果だ

 

勝ちたい、負けたくない、賞金が欲しい、名声が欲しい・・・

 

欲が強くなればなるほどそれに縛られて自然な動きができなくなる

 

ある意味ゴルフでは欲の少ない方が勝つ

 

言い換えると欲を殺せる者が勝つと言ってもいい

 

自分のやろうとしていることと欲を切り離す

 

ただやる

 

 

それは今に集中することだ

 

今に集中するということはその他の全てを忘れ去ることだ

 

自分自身になることだ

 

欲がそれを邪魔する

 

欲があるが故に結果が成就できない

 

そのためにその結果を成就するために何度も同じ経験を重ねる

 

いずれはそれに気づき成就できる日が来る

 

その時その欲は必要なくなる

 

つまりカルマがなくなる

 

どんな結果をも受容できればカルマは不要になる

 

精神修行が目指す道である

 

自分はまだまだだ