めいそうえっせい

色々と心のままに

欲、欲、欲からの愛

このブログを始めてからこんなに間隔が開いたのは初めてだ

 

理由は脚本コンクールの締め切りが迫っていたからだ

 

今回は力作だ

 

載せられるのならこのブログにも載せるつもりでいる

(どうやって載せたらいいかわからない)

 

いよいよ富山〜長野一人旅が近づいてきた

 

魚津で一泊、飯山で一泊する

 

今まで文章だけの無粋なブログだったが写真なんかも載せられたらと

思う

 

特に冬の立山や最も行きたかった飯山の正受庵、特に正受老人が殿様から

もらったと言う三角石の水鉢などは撮ってきたい

 

法源蔵随聞記を読み終えた

 

道元の言葉を弟子が記述したとされている

 

厳しい仏の道が描かれている

 

多少儒教の影響を受けているかのように思え身を律することの大切さが

強く打ち出され

例えば家族や財産は全て我欲であり投げ捨てろの如く表現されていたりする

 

ただ禅らしく座禅を全てに優先せよとの表現で締め括られていることに安堵した

 

自分たちにはもちろん欲があり心の欲望のままに行動するものだ

 

欲は業(カルマ)からくる

 

世界人類に身を捨ててでも貢献したい・・

 

と言うのも欲である

 

他人を蹴落としてでも金儲けがしたい・・

 

と言うのも欲である

 

どっちが良いのだろう

 

啓発(悟り)を得たいと言うのも欲だし

 

それじゃ自分だけ救われればいいのか

 

自分の現時点での解釈に過ぎないが

 

答えは愛ではないか

 

欲とは足りないという思いだろう

 

マズローだかの欲求の説があるがある欲求が満たされると次の欲求が生まれる

 

お金が満たされれば名誉とか地位か

 

最後に何が残る

 

確かマズロー自己実現とかではなかったか

 

自己実現ってなんだ

 

これも自分の現時点での理解だが

 

自分を自分でありのまま受け入れるってことじゃないのか

 

自分もそうだが人は常に他人の評価を気にする

 

認められたい

 

承認欲求ってやつだ

 

これも欲だ

 

承認欲求が真に満たされるとどうなる

 

そういう状態がそもそもあるのか

 

他人が自分をどう見るかは満たされることがない

 

誰かに認められたと思う瞬間はあるのだろうがそんなものはあっという間に

消え去る

 

つまり承認欲求には限りがない

 

欲求が満たされると幸福感や満足感を感じる

 

それが新たな欲求へとつながっていく

 

ところがこの幸福感や満足感を外に求めている限り真に満たされることはない

 

絶対にない

 

全てが変化するものだからだ

 

だからこそ様々な聖典や賢者、聖人が同じことを言っているのだ

 

内側に幸福(天国)がありますと

 

人の内側(物理的な意味ではなく、この現象界の内側という意味だが)には

相対界を超えた純粋で絶対的な場がある

 

アインシュタインは統一場と呼んだ

 

量子物理学はその場を解き明かそうとしている

 

人間の持つ高度に発達した神経系はその場に到達する能力を潜在的

持っている

 

その純粋で絶対的な場に人間が至りその場に確立されることが自己実現である

と理解している

 

他人の承認を必要とはしない

 

完全なる充足の場

 

普遍的な愛の場

 

瞑想とはその場に至る技術である