めいそうえっせい

色々と心のままに

不自然な欲求 続き

たとえば物欲は自然な欲求だろうか、不自然な欲求だろうか

 

食欲はどうだろう

 

では性欲は

 

禅宗などでは極力モノを持たないのを推奨する

 

食べるものも質素このうえない

 

もちろん生涯独身だ

 

過剰な欲求と過剰に抑制する欲求

 

どちらが自然だろう

 

お釈迦様が禁欲など非常に厳しい苦行の果てに菩提樹の木陰でスジャータからミルクをもらって悟りを得たというような話がある

 

この話は過剰な苦行は悟りに役立たないという例えとされている

 

重要なのは自分がどこに向かおうとしているかではないだろうか

 

この相対界において欲求を真に満たせるものがあるのかという命題がまずある

 

欲求自体は心の自然な傾向ではあるがその心自体、真に満足するものか

 

お金でもモノでも食べ物でも性でも

 

自然な欲求と足りないという思いとはどう違うか

 

よく言われるが動物は自分の必要以上に餌を食べない(殺さない)

 

では人間はなぜ自分の必要以上に欲しがるのか

 

足りないという思いからではないだろうか

 

では足りないという思いはどこから来るのか

 

足りないというのは相対的な言葉である

 

何に比べて足りないと思うのか

 

そこに自分自身の自然な欲求はあるのかそれともないのか

 

先述した禅僧が厳しい欲求への自己管理をするのはもちろん欲求には際限がないと分かっているからであるが真の理由はそれを必要としなくなることにある

 

欲しくなくなるのだ

 

最低限で十分

 

そのようなものがなくとも十分真の心の満足を得ることができるのだ

 

つまり不自然な欲求とは、足りないという思いからくる

 

足りないという思いは比べることからくる

 

比べるのはなぜか

 

比べることを教えられて育っているからだ

 

ほとんどの人間はそれが当然であると思い込んでいる

 

自分だってそうだ

 

頭では分かっているつもりだが実際にどうかと問われれば認めざるを得ない

 

ただそれを知っているか知らないかの違いはある

 

知らなければそこに向かうことはできない

 

戻るが

 

自分はどこに向かおうとしているのか

 

比べず自分の自然な欲求に目覚める

 

自然な欲求なら自然に叶う

 

それが自然の摂理だ

 

つまりは不足、つまり足りないという思いはなく十分であると気づけるということ

 

そしてそれが感謝になる

 

有難いとなる

 

不足などない

 

十分ある