めいそうえっせい

色々と心のままに

努力と障害

努力は必要か

 

何かを成し遂げたいあるいは手に入れたいがそのためには相応の努力が必要であると多くの人は思っている

 

物理的な例えで言えば重い物を持ちたいと思えば、力のない者は努力して持てるようにならなければならない

 

レベルの高い大学に入りたいと思えば、競争に勝てるよう努力せねばならない

 

美味しいものは努力してお金を稼がないと食べられない

 

欲しいものは努力しないと手に入れることはできない

 

自分たちは物心ついた時からそれが当然で自然なことであると思っている、もしくは思わされてきた

 

それを疑ったことはない

 

実際にそうだから

 

何度も経験してきたから

 

では努力が努力でなくなることはあるか

 

自分はあるし多くの人は経験しているかもしれない

 

小さい頃絵ばかり描いていた

 

楽しいからだ

 

何時間も描いていた

 

これを努力だと思っていたら続かなかっただろう

 

嫌なピアノを習わされるようなものだ

 

苦痛でしかない

 

上手くなるためには苦痛でも努力しなければならない

 

ピアノが大好きだったら

 

間違っても下手でもなんでも弾くのが楽しくてしょうがない

 

何時間でも弾いていられる

 

ピアノと遊んでいられる

 

これを努力とは言わないだろう

 

どこに違いがある

 

自分が真に好きなことは自分の持つ自然な傾向であり、そこから離れると辛くなる

 

つまり単純に言えば自然か不自然か

 

人は自然なことであれば努力を努力とは思わないか努力する必要がない

 

ところが次の疑問が生じる

 

真に好きなことなのに努力が必要なのはなぜだろう

 

例えば先ほどの絵やピアノ

 

プロセスと目的を混同しているからだ

 

絵を描くことやピアノを弾くことそのものが目的なら努力ではないかもしれない

 

高い値段で売れる絵を描くことや大きなピアノコンクールで優勝するのが目的なら努力になる可能性が高いだろう

 

自分の内側にあるものを基準にする人と外側にあるものを基準にする人

 

内側にあるものは自分にとって自然なものであり外側にあるものは誰か他の人が基準に決めたものとは言えないだろうか

 

もちろん外側に何かを目的にすることが悪いわけでは決してない

 

良い悪いではなく自然か不自然かというテーマである

 

飛躍するが自分の願いが叶うとか目的が達成されるというのは自分の内側の自然な欲求に支えられているからであって当たり前のことなのかもしれない

 

逆にどれほど血の滲むような努力を重ねてみても自分の目標や目的に到達しないのは、自分の外側の不自然な欲求を満たそうとしているからかもしれない

 

もしそうなら何がそうさせているのかが問題になってくる

 

なぜ自分にとって不自然な欲求を叶えようとしているのか

 

そもそも不自然な欲求がどこから出てくるのか

 

これが当面の大問題かもしれない