めいそうえっせい

色々と心のままに

心の満足って何だろう

人はこの世に生まれてなぜ生きるのか

 

物心ついた時には言葉を覚え自我がある

 

親兄弟や周囲の環境によって身につけるものもあれば先天的?に

得ているものもあるだろう

 

生まれつきと言う言葉がある

 

生まれつきとは何だ

 

DNAに遺伝情報として刻み込まれたものか

 

ではなぜその両親のもとに自分たちは生まれるのか

 

説明はつかない

 

輪廻転生という概念から言えばカルマの働きによってとなる

 

自分は輪廻転生を信じていたわけではないが少なくともこの世には

人間の知能では説明のつかないことが明確に存在している

 

最も簡単に言えば、宇宙の果ての問題がある

 

宇宙がビッグバンで生まれたとか膨張を続けているというが

 

ではビッグバンの前は何が存在したのか、膨張する宇宙の外側はどうなっているのか

 

ミクロも同様だ

 

分子をどんどん小さくしていったらどうなるのか

 

物理学者は単なるエネルギーだと

 

そのエネルギーも波だと

 

よく分からない

 

つまりこの世は分かっていないのだ

 

いや自分たちには分かっていないだけかもしれないが

 

自分たち固有の生命の起源もやっぱり分からない

 

使い古された言いようだが、自分はどこから来てどこへ行くのか

 

なぜ生まれつきなるものを持っているのか

 

この世を去れば無になるという考え方では説明がつかないのではなかろうか

 

少なくとも間違いなく言えることは、人は自分の心が満足するものを求めている

ということだろう

 

衣食住はもちろん、異性、お金、名誉、勝利、権力・・・・若さ

 

なぜそのようなものが手に入ると心が満足する(と思う)のか

 

ここに自分たちが生きることの意味というかヒントがあるような気がする

 

実は心は満足しないからだ

 

心は何を得ても完全にかつ未来永劫にわたって満足することはないのでは

 

一瞬満足しそしてまたより大きなもしくは違う満足を求めて心は動く

 

心の動きによって人間の動きが左右される(のが自然だろう)

 

ではこの世に心が完全に満足した人間が存在するのか

 

????????

 

分からない

 

詰まるところ、いろんな宗教や教えと呼ばれるものが示していることは

 

この世には本当に心が満足することはないよと

 

相対的であるこの世は全てが変化するものであって何を手に入れても

一時的な儚いものに過ぎないよと

 

それをずっと心は追い求めているけれどもその先に真の満足はありませんよと

 

さあここからだ

 

だから何だ

 

虚しいだけではないか

 

意味がないではないか

 

こんなようなことに先人達も気づき、じゃどうするんだと

 

心が満足することがないなら欲望そのものを無くせないか

心というものを抑えつけてみよう

心が求めるものを与えないようにしよう

 

ということで苦行が始まる(のではないだろうか)

 

欲望を超えた先には無欲の境地があり、それが真の満足(悟り?)の世界ではと

考えても不思議ではない

 

お釈迦様も最初は苦行されたと聞く

それが最後には菩提樹の下でミルクを飲んで悟った?とされている

(あまり正確ではないかもしれない)

 

欲望が生まれつきの自然?なものならそれを抑えつけるのは不自然であろう

 

というようなことに気づいた人もいただろう

 

しかし欲望は満たされることを知らない

 

さてどうする

 

心の欲望は一体どこから来るんだろう、その根っこはどこなんだ

 

臭いものにフタをしろではないが、欲望が生まれてくるのはどこだという

考え方が生まれるのも自然のように思える

 

それが心の内側に注意を向けることにつながったのではないか

 

人間は物心ついてこの方、基本外ばかりに注意が向いている

 

五感なるものはまさしくそうで、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚全ては外界を

感じるためのものだ

 

それは人間が生きて行く上で必要なものでもある

(もちろん絶対ではない)

 

つまり五感とは、心の下僕のようなもので、心の欲望に沿って、この相対界を感じ、味わい、楽しみ、危険を察知して心に伝える役割があるのだろう

 

それはごくごく自然なことだ

 

何も悪いことではない

 

一方、先の、心の満足はうつろい、より大きなものを求めて行くが決して本当に満足すること

はないという気づきがある

 

その満足を求めることは悪くない自然なことなのだが、いつかそこに人間は無情を感じてしまう

人生そのものに意味があるのかとなってしまうわけだ

 

そりゃそうだね

生まれつき心は満足を求めているが、いつまでたっても本当に満足することなどないのなら

一体何のために生まれてきたの

となるのだから

 

そこで先人達は考えた(と推測する)

 

五感が心から生まれるのなら、それを逆方向にして心の内側に行けないかと

 

やってみたわけだ

 

例えば禅で言えば、数息観(だったと思う)と言って自分の息に注意を向ける

というやり方や、公案などという全く理解できない難問を解こうとするのも

理論理屈を超えて思考のその先へと到達しようとする試み(修業)だと思う

 

まだ学生時代のアルバイトで、着ぐるみを被った一休さんショーなるものに

和尚さん役で出ていたことがある

 

手を打ち鳴らし、一休よ、この音はどちらの手から鳴ったか答えてみよという

禅問答をするのだ

(確か隻手の声という)

 

その頃はその公案の意味などもちろん知る由もなかったが

 

そりゃ答えられるわけないのだがそこから思考を超えて行く

(自分には???)

 

まあどんな手法手段技術にせよ、自分の心の内側に注意を向けていくことに成功する

人たちがいたのだろう

 

そしてそこに真の満足の場があると(気づいた)

 

先の輪廻転生理論の元であるカルマといった過去から引きずっているものがあり

それが心か何か分からないが影響して欲望を生み出している

 

その大元に気付いて辿り着くことで人は真の満足を得る

 

そうするとこの世で求めてきた欲望の数々はそんなにしゃかりきになって

求めるものでもないねと気づき振り回されて一生を棒に振るなんてことも

なくなる

 

心は満足を得て落ち着く

これがいわゆる(欲望に惑わされない)平常心を指す

 

これが仏教でもキリスト教でも多分あらゆる宗教が言っている

天国はあなたの内側にあるという意味なのだろう

 

するとその引きずってきたカルマなるものが最後は消え去り満足を求めてこの相対界

に生まれてくる理由はなくなる

 

とまあここまでは何となく理解できる(ような気がする)

 

相対界に生まれないのならどうなるのかね

 

これはそうなってみないと分からないだろう