めいそうえっせい

色々と心のままに

内側を見る

今回からわかりやすいテーマにする

 

三十年余り瞑想を続けてきて気づいたことがある

 

当たり前というか自然になっていたので分からなかったことが

 

何かを考えたりする時、例えば聞かれたことに答えようとか、知らない人と

話すときとか、もっと言えばテレビで映画を見ていてどうなるかなと思ったとき

 

必ず内側を見るのだ

 

自分の内側にあるものを探ろうとする

 

そしてその中にあるものの中から答え?を見つける

 

前はこうだったっけ

 

今日は歩いて隠居部屋に来た

 

約4キロある

 

たまにはいいかと思って歩いたのだが思いの外疲れてしまった

 

理由がある

 

瞑想後の感覚が良くない

 

頭の奥になんとも言えない疲労感というか重さというか表現しにくいものが

残っている

 

たまにある事だ

 

自分のでは恣意的に内側へ入ろうとするときに起こるのではないかと

感じている

 

無邪気さがもっとも大切なのだがこういうことはたまにある

 

頭で考えるからだ

 

今日は歩いて隠居部屋に行こう、そして数時間したら地下鉄に乗って

あそこ行って皆で楽しくご飯を食べよう

そのためには今日の瞑想はいいもの?にしたい

 

とまあこんな感じだ

 

そしてそれが全て裏目に出る

 

いやそうではないのだろう

 

つまりそれもありと

 

ただそのようなとき、つまり瞑想の後のことだが、やはり全てのことが効率的には

なりにくい

 

まあストレスを一身に浴びてる状態と言っていいかも

 

例えば、スカッとした瞑想後だと歩いていると見えるものが全て新鮮にそして輝いて見える

 

木々や空、鳥、花、水なんでも

 

心の自然な喜びが湧いてくる

 

今日のようなときだと、疲れを常に意識してしまい、視野が100分の1になったかの

ようだ

 

そして内側を見ても何も浮かばない

 

どんよりしてしまっているのだ

 

今これを書けるのはようやく回復しつつあるためだ

 

まあしょうがない

 

自然が大切だから受け入れるしかないさ

 

ちなみに、これはあくまで私感だが、白隠さんが若い頃修行でとんでもなく重い

禅病になるのだが自分が感じているこの何百倍、何千倍も重いやつではないかと

思っている

 

逆に言えば内側に入ることはリスクがある(精神的に)ということに他ならない

だろう

 

自分の得ている自覚ももちろん様々な知識や指導もありそして徐々に自分自身の

体験も踏まえてきているから対処可能ではあるがもし自己流でやっていったとき

にはちょっと怖いものがあるのではなかろうか

 

何しろ無邪気が一番