前回、お金持ちはお金を持っていることを「知っていて」貧乏な人は持っていないことを「知っている」と書いた
そして望むが手に入らない負の回転を変えることはできるのだろうか
2つの視点から考えてみよう
まずそもそも論から
そもそもその望みとか願い事が浮かぶ(欲しがる)ことについて
人はないものを欲しがると前回書いた
その望みは正しいのか
正しいと言うのは言葉のアヤだがあえて使う
もっと言えば望みを抱く人に取って正しいのか
例えば子供たちが抱く望みについて考えてみよう
鬼ごっこで遊びたい
いつも行く広場は年上の子供に占領されていて使えない
でもどうしても鬼ごっこをやりたい
しょうがなく近くの工事現場に行く
工事現場が休日で誰もいないことを知っている
楽しく遊び始める
ところがそのうちの一人、自分でも良いが一生懸命鬼から逃げるうちに工事中の陥没した
穴に落ち大怪我をしてしまう
鬼ごっこをしたいと言う欲求=望みは叶ったがその結果はどうか
この欲求は正しいものだったと言えるだろうか
子供は純真なので大きな間違いにつながる望みを持つことは少ないだろうが
大人になるに従って多くの影響を周囲から受けて育つ
自分の価値観も変化する
いい大学に入る方が良い
いい会社に入る方が良い
手に何か資格をつけた方が良い
結婚をした方が良い
もちろんお金持ちになった方が良い
溢れかえんばかりだ
そこに自分はあるか
自分の抱く望みや願望は誰のものか
望みや願望そのものの問題、これが第一
次に「知っているかどうか」の問題
先ほどの鬼ごっこで例えてみれば
そもそも論とも関係するが、楽しくみんなで遊ぶのが本来の目的であって絶対鬼ごっこじゃなくてもいいかもしれない
もっと面白い遊びを思いついたらそっちでいい
ここに知っているかどうかが関わってくる
もっと楽しい遊びを知っていれば選択の幅が広がる
鬼ごっこにこだわる必要はなくなる
家の中で楽しむ遊びにすれば危険な工事現場で遊ぶ必要はない
お金がない
欲しくなる
お金を持つこと「だけ」が最終目的になる
他の全てが犠牲になる
先ほどの工事現場だ
では考え方をガラッと変えて自分は十分お金持ちであると「知ったら」どうなるだろう
とんでもないお金持ちになると言う目的に幅が生まれないか
お金をそこまで欲しがる必要がなければ自分のそもそも論で言えば本質的な望みに気づく可能性が高まるのではないか
お金は手段と気づく可能性はないか
お金は何かの結果であって目的そのものではないと思う可能性はないか
つまりより大きな視点で言えば、大きな何かをした結果、大きなお金と言う形で返ってくるものだと思えれば、その大きな何かをすると言う選択が可能になる
そしてその大きな何かは何でも良くて自分が大好きな何かでいい
大好きな何かがなぜいいかと言うと大好きであると自分が「知っている」からだ
大好きな何かであればプロセスが楽しめる
ふるさと納税のように返礼品を求める必要などないのだ
大好きな何かをプロセスとして楽しみながらやっていく
いつか自分の望みや願望が実は何だったかが明確になる
そしてそれが叶っていることに気づく
もちろん大金持ちになっているかもしれない