現在、二つの小説クラスに通っている
一つは女性講師、もう一つは男性講師である
どちらにも特徴があって面白い
ただどちらにも共通する点を僕は発見した
いや発見したというより当たり前と言えば当たり前かもしれないけれども
つまりは全てが主観ということ
もっと言えば好き嫌いということ
さらに言えば誰が書いているかということに左右されるということ
人間社会なのでよくよく考えれば当たり前なのであった
事象心象を文章で表現することは易しいようで難しい
ある光景を見て、それを文章にしてみる
ある意味、絵を描くのも同じである
まるで写真のごとく文章にすることのできる人もいるし、そうでない人もいる
ここに二つの疑問が生じる
一つは、写真のごとく、つまり絵画でいえば抽象画ではなく具象画であるが、文章としてそう描くことが、その小説において適か不適かということである
もう一つは、どれほど文章で具象化しても、読む側の想像力もしくは共感力の限界があって、あるいは同じような場面を経験しているかどうかにも大きく左右されることになる
心象風景になればさらに困難になる
詩では食べていけない=本が売れないという記事を何かで目にしたが、詩というものは、恐ろしいくらい個人的な体験であり心象そのものであると思うので、読む側からすると、そこに自分を投影しうる何かがなければ単なる難解なだけの文章にすぎない
俳句や短歌などに比べても共感性の幅がひどく小さいのではなかろうか
小説は書ける文量があるし、セリフもあって、よほどの高度な文学表現?を用いていない限りは大体において共感はともかく内容の理解は可能である
なので勝手な解釈ながら、書く側からしたら、読者に伝わる確率は
小説>短歌>俳句>詩であって、読む側の理解も同じなような気がする
問題はその先にある
全ての創作に共通することだが、読む側の主観が全てであって、それは好き嫌いと、誰が書いているかに大きく左右されるということである
例えば料理と比べてみよう
食べるという行為は万人共通であって、味覚は非常に個人的な体験である
もちろん好き嫌いはあるが、誰が作っているかにはそれほど影響はされない
小説は誰が書いているかに非常なる影響を受ける
もちろん書店に並んでいたり、何かで書評を読んだり、知人から勧められたような場合は別にしてだが、それだって、作者の風貌、氏名、性別、年齢、出身地、卒業大学、経歴などが影響することは間違いない
小説クラスにおいてはそれが顕著に表れる
その作品を誰が書いているか一目瞭然なのであるから
現代の三十代の主人公を描いているとする
それを例えば六十代の僕が書いていれば、読んでいる方は、明らかに強い違和感を感じ、批判的に読むだろう
もちろん三十年前の話として書けば別である
では村上春樹が同じように書いたらどうだろう
きっと誰も違和感を持たないに違いない
それは村上春樹というネームバリューのなせるわざであるし、それを前提として読むことを可能としているからに他ならない
ということで、小説クラスに作品を提出するということは、そもそものレギュレーションの中でチャレンジせねばならないことなのである
みな、あの人はあのような人であのような作品を書くに違いないとか思っている
そこの枠をはみ出て良い評価を得るのは簡単ではないのである
ただそれを自分の栄養分にするか、できるかどうかは自分次第でもある
多くの受講生の批判的な視点と、あえて恐れず言うならば、講師の好き嫌いと偏見にもめげず自分の小説のスタイルを確立せねばならない
これはなかなかに厳しく、挑戦的で、面白い
四十年近くビジネスの世界に身を置いてきたが、こんな世界はなかった