今や老年界のアイドル?とも言われるかどうか実は知らないけれども、和田秀樹さんの本やコメントは多くの高齢者の共感を呼んでいることは間違いない
彼の語る言葉を僕なりにごくシンプルにかつ少々誇張して要約すると
年を取ったら、好きなことだけやって、好きなものを好きなだけ食べ、何ものにも縛られずに生きなさい
とこうなる、さらには
定期検診の値など気にするな、医者の言うことは真に受けるな、最も怖いのはやる気の衰退であって、活動性が低下してボケないためにも肉をしっかり食べて、肥満気味でも構わない
あと、他人と比べる必要はなし、自分が幸せだと感じることがあれば十分である、お金の心配もほとんどする必要はない、高齢者だといって恥じ入ったり遠慮することなどなく、堂々と振る舞えば良い
こんな感じだろうか
僕はこの和田秀樹さんの意見に概ね、賛成である
生き方の「的」を突いているなあと思う
彼は灘高から東大医学部というスーパーエリートであるが、いわゆる出世競争からは早々と脱落した落ちこぼれだそうである
そこがまた共感を呼ぶ点でもある一方、その経歴が鼻につくという意見がないわけでもない
どれほど落ちこぼれようと、それはスーパーエリートの中のことであって、巷に出れば、輝くばかりの経歴であって、少し古い言い方をすれば、東大医学部を卒業した時点で勝ち組なのだから
もちろんそんなことはご本人も分かっていることだろう
東大医学部卒でもない、私も含めてただのそこらへんの名もなきジジイが同じことを言ったとしても誰も耳を貸すはずもないし、出版社が興味を持つはずもないから
なので、そもそものスタートラインが違ってるじゃないかと文句の一つもつけたくなるのは人情でもある
僕のこのブログや趣味の小説もそうだが、彼が本を出したりSNSで発信したりしているのも、根本は承認欲求の表れである
つまりは誰かに自分という存在を認めてもらいたいのである
もちろんそれは悪いことでは全くなくて多分全ての人に元々内在しているものではなかろうか
世界に一つだけの花という歌があるが、人はいつかどこかの時点で、ああ、僕はこれでいいのだと思えるときが来るのかもしれないし、そのときのために生きているのかもしれないとさえ思う
若いときはなかなかそう思えないものだが、年を重ね、さらには僕のように退職して仕事から離れるようになると、ある種の諦観みたいなものも芽生えてきて、自分を客観的に見つめられるようにもなってくる
僕はさらに三十年以上も瞑想という行為を飽きもせず、毎日毎日続けてきたおかげかどうかは知らないが、多少は諦観が早かったような気もする
なのにである
良い小説、人を感動させる小説を書きたい、講師に褒めてもらいたいという欲求、誰々よりは上手く書きたいという我欲、自分に書けそうもない素晴らしい小説への嫉妬、本を出したい、文壇デビューしてみたいという大いなる望みが僕にはあるのだ
さらには、もっとお金が欲しい、もっと自分の希望に合う家に住みたいもあるし、幸か不幸か若い女性とお付き合いしたいとか浮気とかそっちの願望は「今の所」ないが、これはその気がないというよりはやはり諦観の部類かもしれないのだけれども
これが僕にとっての誤魔化しようのない現実である
所詮小さな人間なのである
そして和田秀樹さんも多分そうである
でもそれでいいじゃないかというところから全ては始まるのだろう
それではいけないと思うと苦しくなる
ああしなきゃ、こうしなきゃ、これをしてはいけない、あれをしてはいけないと思って生きてきたけれども、実はそうでもないんだなと思えるようになったのだから
ただそうは言っても僕のような年になっても、社会的な世間体だったり、経済的だったり、楽しみや幸せを見出せずに生き苦しいと感じている人はいるだろう
その人たちもいずれはそこから解放される時がやってくると僕は思う
なので今はそれでいいと思えればそれでいいではないだろうか
やり過ごせるだけの人生経験は誰しも積んできているはずだから