めいそうえっせい

色々と心のままに

死を選ぶ 1

死は選んでも良いものだろうか

 

権利と義務という言葉が思い浮かぶ

 

生は権利か義務か、同じように死は権利か義務か

 

僕たちはつい生と死を対比して考えがちで、しかも生は尊く、死は悪いみたいな概念を心のどこかに抱いているようにも思う

 

ところが誰もが否定し得ないのは、誰にも死は必ず訪れるということである

 

まず持って僕たちは今生の生を選択したのだろうか

 

つまり選べたのかどうかということだけれども

 

もし選べたのではないとしよう

 

なんらかの偶然とか神様の計らいか分からないが、自分の意思でも選択でもなく、この世に生を受けたとする

 

となると、この生は少なくとも義務ではないことになる

 

であれば宝くじにあたったかのようなある種の権利なのだろうか

 

この世に生きられる権利

 

でも宝くじは自分で当たりたくて買っているだろうからこれもまたちょっと違う

 

無理矢理生きさせられているのか

 

なんのために?

 

誰のために?

 

自然の摂理だから?

 

自然の摂理ってなに?

 

誰が作ったの?

 

自然にできたのならその自然を作ったのはなに?

 

とにかくよく分からない

 

自分の意思でもなく生を与えられて、生きさせられて、今度は死にたくもないのにいつか死んでいく

 

こんな理不尽があるだろうか

 

少なくとも僕たち人間には自由意思なるものが備わっている

 

だからこそ文明を発達させることができた

 

地球の自然界の中で最高の知能と想像力を持っていると言っても否定する人はいないだろう

 

なぜそんな力が人間だけにあるのか

 

猿の突然変異?

 

つまりは全ては偶然性に支配されているのか

 

それともどこかに意思は存在するのか

 

分からないからこの辺にしよう

 

では今度は今生の生には意思があって選択できたとしよう

 

僕は自分の意思でこの世に生まれてきたと

 

なぜだかその理由は忘れていると

 

ただなんらかの意図を持ってこの世に生まれ、生きていていつか死んでいく

 

なぜ目的を忘れている?

 

せっかく目的を持って生まれたのに

 

僕はここで気づくことに気づく

 

人間の自由意思は完璧なる自由意思であって、僕たちはなんでも自由に選べる

 

今日何しようとか、何食べようとか、誰と会おうとか

 

物理的に制約を受けることはあれども可能性を挙げたらキリがない

 

つまりは生まれてこの方、少なくとも物心ついてからほとんどのことは自分で選んできている

 

誰かが選んだのだと言っても、その誰かの選択を受け入れたのは自分の選択でもある

 

つまり人生は選択で成り立っていると言っても過言ではないだろう

 

僕には選択においていくつも後悔がある

 

一つは家である

 

あの家を買えば良かったという類の

 

もちろん諦めたにはそれなりの理由もあるが、後悔には違いない

 

あの家を買っていれば今頃どうだっただろうなどと考えることもある

 

長くなったので次回にします