めいそうえっせい

色々と心のままに

死を選ぶ 2

僕がこの世に生まれてきたのは自分が選択したからであるという仮説

 

全くの偶然であるとするよりは理解しやすいような気がする

 

ただなぜ選択をしたのかである

 

選択したからには理由とか目的があって然るべきであるが僕はそれを覚えていない

 

問題はここなのだ

 

ここが生の秘密ではなかろうか

 

ある家を買わなかったことを後悔したと前回書いた

 

つまり自分にとって望ましい選択を僕はしなかったせいで後悔があるわけだ

 

後悔するということはその選択が良いものではなかったと気づいたということになる

 

じゃなければ後悔などしないから

 

その気づきが人生の中にはたくさんあって、次の人生へとつながっているのじゃなかろうか

 

つまり死んだ僕はあんな気づきやこんな気づきがあって、今度こそ後悔しない選択をしようと思って生まれるんではなかろうか

 

ただそれを覚えていたなら自由な選択にはならない

 

さてここがもう一つの問題である

 

全てを覚えていて後悔しないように選択できるとしたなら完璧な後悔のない人生になるだろうか

 

いやそうはならないような気がする

 

その選択はあくまで自由意思に基づいていた方がいい

 

あの時ダメだったから今回はこうしようじゃなくて、こうしたいからこうした、だからこうなったの方が僕はいいと思う

 

もっと簡単に言えば、同じシチュエーションで、自由意思に基づいて異なる選択をすることに意味がある

 

そこで初めて人生が変わっていくような気がする

 

そのために生きているとさえ思えるのだ

 

ところで残る大問題は死である

 

自由意思で持って生を選んだ以上、死を選んでもいいのだろうか

 

寿命という言葉あって、それこそ自然の摂理の中で生きている以上、それを全うするのが人間の務めみたいに思い込んでいるが果たしてそうだろうか

 

僕もそうだが人間はほんの小さなことにも生きる楽しみを見つけられる可能性がある

 

生きることが苦しみだけになったら死を選んでもいいような気がする

 

もしくはいいとか悪いという善悪を死は超えていないだろうか

 

自分で死を選ぶのはいいことか悪いことか

 

少なくとも自分の自由意思で選べることだけは間違いない

 

繰り返すが、生まれたのが自分の意思なら、死ぬのも自分の意思でよくないか

 

そこで前の問題が出てくる

 

何を選択しようと思って生まれたのかという理由と目的である

 

もし!

 

死を選択したのを後悔していたとしたら???

 

新たに生まれてきて、同じシチュエーションで、自由意思によって死を選ばないという選択をしたかったのだとしたら???

 

生きている以上、死ぬその時まで選択は続くものと思って間違いないだろう

 

もちろんこれは可能性であって、死ぬ選択が悪いと僕は思わない

 

選べるのだから

 

そこに善悪はないと思う

 

この相対的な世には、黒白や善悪の概念が存在するが、生と死はそれを超えていると僕は思う

 

要するに今の僕の考え方は、生も死も、自分が選択できるし、そこに善悪はなく、今自由に生きているように、自由に選択すべきことではないかということである