めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想修行の日々

今朝の瞑想体験は一風変わっていた

 

中学高校の時の思い出したくないことが急に湧き上がってきたのだ

 

心の奥にしまってあったことだ

 

今まで40年以上全く思い出さなかったわけではないが心の表層にそれが

出ようとするのを封じてきたように思う

 

悪事をしたとか誰かを傷つけたという類いのことではない

 

自分自身を許せないというかプライドの問題なのだ

 

それが瞑想中にふと現れた

 

同時に心の痛みがやってきた

 

瞑想を中断しようかとも思ったがまあどうなるか様子を

見ようと考え直した

 

当然の如くいつもの安定した?瞑想というわけには行かない

 

心はちりじりに乱れる

 

思い出したくなかった辛い出来事をどう扱うか試行錯誤して

みたもののどうしようもない

 

そのうちにある種諦めのような境地になった

 

やがて瞑想が終わった

 

今これを書いているのは瞑想終了後2時間ほど経っている

 

そしてあえてあの思い出を思い出してみた

 

何故かうっすらとなっていて心に何も響かない

 

傷口で言えば血が流れた後かさぶたになりそれが

剥がれてうっすらと皮膚が赤くなっているかのようだ

 

あの辛い思い出は自分にとって何だったのか

 

意味のある体験だったのか

 

自分なりの結論はこうだ

 

意味などない

 

他の全ての経験と同じく単なる経験だったということ

 

経験が何の意味も持たず単なる経験であるとすると経験を

すること自体に何の合目的性があるのか

 

心は満足を求めて経験を重ねる

 

そう

 

心が経験を求めるのだ

 

満足を得るために

 

という事は心が満足で充満しているなら何の経験も不要になる

 

何の経験も不要という事は経験をしないという事ではなく経験を

求める理由あるいは目的が心の満足ではなくなるという事だ

 

そしてそこから得られる経験は単なる経験でしかないという事

 

心が満足で充満しているという事は経験を求める理由は喜びに

なるのではないか

 

マザーテレサの信じ難い行いはどうやって生まれたのか

彼女は誰かに感謝して欲しかったのか

彼女の心は他人の感謝や自分への評価を求めていたのか

 

もちろん違うだろう

 

彼女の心に不満などなかった

不満がなく満足していた

心は足りていたのだ

 

だからこそ溢れ出る喜びが他人への奉仕に向かわせたのでは

ないか

 

つくづく心とは不思議なものである