定年退職2年目に投入した
少々感慨深いものもあるが過ぎてしまえばああこんなものか
そっくりの事象に対して異なる反応を示すのはなぜなんだろう
知人に厚かましい男がいる
厚かましいと言う形容詞は自分の個人的な視点である
もちろん彼は自分が厚かましいなどとはこれっぽっちも思っていないのだ
寿司屋に行く
自分は結構板前に気を遣う方だと思う
忙しそうなら少し注文するのを待とうとか
素人みたいに思われたくないなとか
彼は全く違う
常に上から行く
そしてそれが当たり前だと思っている
この話題でしっかり話したことはないのだが多分客だから、あるいは金を払うのだから
と思っている節がある
前置きはさておいて
なぜ彼と自分ではこれほど異なる反応をするのだろうか
この根本要因はなんだろう
持って生まれた傾向と後天的環境因子による?
分かったような分からないような話だが何となくそうかなと自分も含めて多分皆思っているだろう
後天的なものは確かにありそうだ
やはり親とか教師とか友達とか、あるいは読む本とか見るテレビとか聞く音楽とかに少なからず我々は影響を受けていると思われる
では持って生まれた傾向とは何だ
遺伝?
それもありそうだがそれだけだろうか
例えば遺伝子に組み込まれた何ものかがあってそれがある事象にどう言う行動をとるかを基本的に規定していて、そこに後天的な環境因子が働いて、行動は枝分かれするとか
遺伝子はもちろん代々引き継がれている
なので遺伝性疾患なども存在する
では遺伝子からの影響は絶対的なのか
避けられないことなのか
表面的、物理的、つまり先の遺伝性疾患の発現などは基本避けられないかもしれない
主題であるある事象への反応に対して遺伝子がどれほど関与しているのか、そしてそれは避けられないのか
認識ということを考えた時、我々はある事象をどう認識するのだろう
歩いていて人とぶつかる
このやろう、ぶつかってきやがってと思うか、ああ、ぼうっとしてたんだなと思うか
前者ならこの事象を怒りに変換し、後者なら優しい笑顔に変換できる
あるいは単なるものごととして捉えるのみで何の感情にも変換しない
物事をどう認識するかも遺伝子に組み込まれているのだろうか
そしてそれは変えられないことなのか