そんな恵まれた僕だが、今、孤独を感じているかと問われれば、イエスと答える
そう、紛れもなく孤独を感じている
それは繋がっていた(と思っていた)いくつかの糸が切れたからだ
全ての糸が切れればとんでもない孤独を感じることだろう
それでも我慢して耐えて生きている人たちはきっと現実に多くいるのだろう
社会にも、会社にも、家庭にも、友人にも繋がれない、あるいは繋がりを感じられない人たち
どこにも誰にも泣き言を言えない、頼れない、縋れない人たち
朝のニュースで、東横キッズという若者たちのことをやっていた
歌舞伎町のTOHOシネマズあたりに屯する若者たちを指している
居場所がない、話す人がいない、頼る人がいない若者たちが集まるらしい
携帯が普及したこんな現代なのに
しかも、自分の本音を語れる相手がいないのだが、語るのは、親しい友人じゃなくて、通りすがりの軽い関係の相手の方がいいという
親しい友人だと重いし、妙な負担とか責任とかややこしくなるのが嫌だという
僕にはこの感覚はどうしても分からない
想像しかできないが、もしかすると、携帯とかSNSを介して意思疎通をすることが、このような事態に繋がっていないのだろうか
人と人は直接、相手の目を見て意思疎通すべきで、意思とは言葉で伝わるのはほんの一部分であって、実はもっと深いところで伝わるものがあるのだ
携帯とかSNSですごく多くの人と繋がっている(あるいは社会と)と思い込んでいるかもしれないが、その繋がりは多分とても希薄なものだ
糸で言えば、蜘蛛の糸くらい細く切れやすい
多分、人は皆、心の奥で人と直接話したいという欲求があって、それには、自分のことも知って欲しいし相手のことも知りたいという根源的な渇望があるからだ
それが希薄になればなるほど孤独感が増すような気がする
要は(簡単ではないが)直接、話せる人をなるべく多く作ること
親しくなったらそれができるではなくて、まずは話す、なんとか話す、きっかけを作って話す、そして少しずつでもいいから親しみを込めて話す、何かをやりとりする、お願いごとでも手伝えることでも、お土産のやり取りでも、趣味のことでもなんでもいい
そうやって一人、また一人と作る
携帯やSNSがきっかけでもいい
でもそれはあくまできっかけであって、その後は会って話す
相手の重荷になるかなんて心配なんてしなくていい、相手も同じように心配しているだけだ
自分が心を開けば相手も安心して心を開く
重いと感じたらその重さが繋がりの重さと考える
重さを引き受ける覚悟を持つ
それこそが人間関係だ
蜘蛛の糸から、簡単には切れない太いロープにしていく
ロープが数本できれば孤独感は解消される
最後に孤独と孤独感は違う
真の孤独は存在しないからだ