めいそうえっせい

色々と心のままに

創作の楽しみ

つい先日、小説クラスの飲み会があった

 

前半は互いの作品を論評し合い、後半は場所を移して居酒屋で飲んだ

 

小説家も含め、年齢差もある様々な男女がワイワイガヤガヤとやる

 

最高齢は80歳を超えているのだが、そんな年齢差を全く感じない

 

そんな中、私がリスペクトする78歳の男性がいる

 

この人は小柄だがバイタリティに溢れ、作品の質もどんどん上がってきている

 

アップルウオッチをし、iPadを使いこなし、英語はペラペラである

 

英語は腕がなまらないようにと今でもYouTubeなどで勉強を欠かさないし、興味のある海外の本は原書で読むくらい

 

彼は数年前に愛する妻を亡くしている

 

亡くしてみて初めて分かることだけれど、自分の半分がこの世から失われたようなものだと彼は表現した

 

それが契機となって創作の道に入ったと言う

 

最初の作品は奥さんとの話だそうだ

 

そこから少しずつ自分を解放する手段となったのが創作だった

 

ほんの少しだけ僕にも分かるような気がする

 

僕は会社を定年退職してから創作の道に入った

 

振り返ればそれは、40年近くも自分を繋ぎ止めていた鎖から解き放たれ、とんでもない自由を感じたと同時に、どこに身を置いていいやらわからない所在の無さや不安、孤独、寂しさといった負の感情から自分を解放する一つの手段でもあった

 

もちろんそのつもりで始めた訳ではないのだけれど、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもので、自分の中の隠された意思がそう言う方向へと進ませたのかとは思う

 

いつも思える訳ではないが、こう言う時、この世に不足はなく全てが満たされていると感じる

 

創作は無限である

 

無限であるがそこに投影されるのは自分である

 

小説家と飲みながらそれを論じ合った

 

その人はやはりそのように言った

 

僕は意地悪でこう質問した

 

役者のように全く自分と異なる話を作り上げることは出来ないのでしょうかと

 

例えば普通の人が連続殺人鬼を描こうとすることはどうなのでしょうと

 

するとこう言った

 

全く異なる自分も自分ですと

 

なるほどと思ったし感嘆した

 

連続殺人鬼を描いてもその中に自分が現れると言うわけだ

 

その話を聞いて創作は自分と向き合うことであって、その経験がこう言う理解を生み出すと言うのは凄いことであると思った

 

この話を聞いてまたほんの少し自分のレベルが上がるかもと思った

 

しかし面白い