自分にとって待つことは苦痛だった
いや今でも苦痛には違いない
行列に並ぶひとの気持ちが分からない
ずっと昔、若い頃だ
同じオフィスにいた女性、当時30歳くらいだと思うが
彼女は行列を見るとついつい並んでしまうと言った
待つことが楽しいんだと
何があるんだろうと思うそうだ
この世にそんな感覚を抱くひとがいるとは信じられなかった
ところがそれが少しずつ変化してきている
トシのせいもあるだろうが明らかに違う
先週末からあるところに出かけそれに気づいた
朝ごはんを食べホテルをチェックアウトし、どこどこに行き、何時頃帰るみたいな漠然としたスケジュールが自分のなかにあるともういけない
なんとなく焦るような気持ちになる
それがイライラに変わっていく
それが今までの自分だった
そのような自分があまり好きではなかった
いやずっと変えたいと思っていたくらいだ
待つのは意思で、待てるのは自然なことだ
まず、朝ごはん
自分は早食いだ
さっさと食べてしまう
一緒に行った女房や娘たちはゆっくり食べている
ゆっくりどころか一旦食べ終わったかというときにまたごはんやお味噌汁をお代わりしている
昔なら下手すると自分だけ先に部屋に戻ってしまうくらいだ
それが待てるのだ
どこかにイラつく自分がいるのも分かっているがそれに巻き込まれることはない
次にチェックアウト
自分の予定からはもう遅れている
昔ならイライラして早くしなさいなどと女房に言っていただろう
なぜか待てる
結局11時チェックアウトを30分以上オーバーした
それからレンタカーで近場を見て回ってのだがそこでも何ら焦ることもなく自然に任せることができた
結局自分の思い描いていた予定は変わってしまったが終わってみればそれで良かった
昔は、自分の予定通りにしたいがあまり、強引になったり命令口調になったりしてせっかくの楽しい時間を台無しにしたこともあった
でもそれがなかった
自然だったからだ
そう
自然に任せることができたのだ
特筆すべきはそれだけではない
体調や気分のよいときならそれもあり得たが結構運転やホテルゆえの寝不足もあって
それほど良い状態ではないにも関わらずそれができた
自分には驚きだ
さすがに自宅に帰りつく頃には疲れがどっと出ていたがそれでも不機嫌になることはなかったし、状態に巻き込まれることもなく、自分自身をしっかり見つめて判断できる状態だった
これは自分にとっては大きな成長のしるしだった
ちいさな一歩がいつのまにか大きな一歩になることもあるんだなと思えた週末だった
そういえば富士山がきれいだった
30年ほど前、ご来光を拝みに富士山に夜を徹して登ったとき、一歩ずつ歩けば着くんだなと噛みしめたことを思い出した