めいそうえっせい

色々と心のままに

外部刺激は大切?あるいは必要?

昨晩、久しぶりに女房と外食に出かけた

 

以前から見知った店だ

 

カウンターから料理人が聞いてくる

 

日頃何をしているんですかと

 

自分が定年して仕事もせずブラブラしているのを知っているのだ

 

うーむ、説明に困るなと言うと

 

ヒマじゃないんですか、今コロナで外にも出歩けないですよね

 

うん、そうだなぁ

 

うちに来るお客さんなんか、ほぼ毎日自宅でリモートになっちゃっておかしくなりそうだって言ってましたよ

 

確かに

近所の大学の先生は、ずっと家にいてオンライン授業やってると気が滅入ると言っていた

 

人はそういうのに適していないんだろう

 

ふと自分は何でそうならないんだろうと思い、その料理人に言うと

 

すかさず隣の女房が

 

好きなことしかしてないからだと口を挟んでくる

 

好きなことしかしてない?

 

確かに

 

瞑想をし隠れ家に時々行きモノを書いている

 

ごくたまに友人と昼飲みなんかをしている

 

ボケませんか

 

なんてたまに聞かれたりもする

 

刺激がないでしょう

 

これも先日、昔の会社の部下だった男と電話で話した

 

彼はいわゆる遊び人で、例えると高田純次のような感じの男だ

 

何してるんだいと聞くと、相変わらず忙しく遊んでいると言う

 

自宅を離れ、実家の親の面倒を見ると言う口実で地元に戻って遊び放題だそうだ

 

その遊びというのが、ゴルフと女性だと言う

 

ゴルフは今年に入ってもう5回、明日もやると

 

女性の方は道端でばったり会った中学生の同級生と付き合ってるらしい

 

いい年じゃないか、大丈夫かいと聞くとその女性は離婚したばかりとのこと

 

車も何だかアウディのいいのを買って二人で遊びに出かけるのだそうだ

 

ボケませんか云々と言ったのは彼だ

 

全く羨ましくないわけでもないが疲れそうだなと思う

 

それが年取った証拠と言われればそれまでだが

 

定年退職してもうすぐ1年

 

振り返ってみれば多忙な日々から一転、彼がいうようにボケそうな日々かもしれない

 

しかし瞑想修行には平々凡々としたシンプルな日々が適しているように思う

 

何か刺激があったらあったで面白いのかもしれないがなかったなかったでよい

 

行雲流水

 

ずっと外部の刺激に晒されそれが当たり前だと思ってきた

 

内側に注意を払うなどという機会は瞑想でもしなければ有り得なかった

 

 

内側に真の満足を見出すと外側には求めなくなると何かで読んだ

 

自分が今のシンプルで退屈?な生活に気が滅入らず、おかしくもならず楽しく過ごせているのは自分の内側にアクセスしているおかげではないだろうか

 

ありがたい話だ