めいそうえっせい

色々と心のままに

隠遁を考える

先週末、久しぶりに遠出して河口湖の山荘に行った

 

古い会社仲間の集いが年一回開かれていて昨年はコロナで中止したが今年はワクチンを打っているので良かろうと高齢者6名ほどが集まった

 

懐かしい面々が集まり昔話に花が咲くのだがなんだか今ひとつ気持ちが乗らない

 

何だろうと帰りの車の中でもずっと考えていた

 

ああ、つまらないのだと気づいた

 

まず現在を共有していないので昔の話題かいわゆる時事ネタくらいしかない

 

以前はそれでも酒を酌み交わし、カラオケをやったりして盛り上がってはいたが流石に結構な歳になってくるとそれほど酒も進まないし騒ごうという気分にもならない

 

やはり共通のテーマがいるのだ

 

同じ志向性同士なら共通テーマで議論したりできる

 

次回は何か提案してみようと思った

 

さて、隠遁である

 

俗世間に生きる者としては完全な隠遁生活を送ることはほぼ不可能である

 

インドの話だったか、家族を持ってもある歳になればその責任から解放されて、脱俗、つまり隠遁して精神修行生活に入るのが理想とされていたと思う

 

昔の日本にもその考え方はあったのではなかろうか

 

脱俗して出家得度し仏門に入るとか

 

つまり俗世間での責任を果たし終えた後は、人間としての完成、つまり悟りを目指す考え方だ

 

僕の場合、子供は社会人に育て、会社も定年退職まで頑張った

 

幸い生活に困る状況にはない

 

会社人間だったので大した趣味もなく、これといった本物の友人もほとんどいない

 

長年続けているものは、瞑想と将棋(見るだけだが)、ゴルフ(これもたまに程度だが)

くらい

 

家内も幸か不幸か、どこか旅行だとか美味いものだとか言い出すタイプではなく、至って自立した女性であるため僕のことには特にお構いなしである

 

これってよくよく考えてみると隠遁に最適な状況ではないか

 

隠遁生活とは、俗世間を離れて精神修行に邁進することなのだろうが、困難さを鑑みるに多分一番は孤独との対峙だろう

 

俗世間には様々な色がある

 

つまり人と人との交わりや変化だ

 

隠遁は想像するに単調であろう

 

くる日もくる日も同じことを淡々と繰り返していく

 

旨いものも酒もテレビも話す人もない

 

その徹底した孤独の中で己を見つめ続けていく

 

僕はそんな生活に耐えられるのだろうかと考えてみる