めいそうえっせい

色々と心のままに

隠遁を考える 続き

俗世間にいながら隠遁する

 

例えば片岡鶴太郎さん

 

彼はある意味それに近い生き方をしていると思う

 

徹底しているもんな

 

離婚したそうだがあの生活を徹底して送ろうとすれば夫婦間でのすれ違いは嫌でも生じるだろうしなあ

 

こっちはそこまでの覚悟はまだない

 

今後も持てるかどうか

 

でもこの世で生きられる時間もそんなにもう長いわけでもないし本気で考えないとなあ

 

鍵は孤独と向き合うことだと頭では分かってるんだ

 

俗世間にいるので物理的に完全な孤独ではないにしろ精神的には孤独になる

 

しかし少しだけ、本当に少しだけど光明もあるんだ

 

長年の瞑想のおかげか、状態の良い時には「向こう側?」を垣間見る瞬間がある

 

そのような瞑想が数日続くことがあって、ここが不思議なんだけど、何か、例えばニュースでもいい、最近ではオリンピックの話題でもいい、ふとそれに触れると、何かが分かってしまうってことが多くなるのだ

 

先が見えるって言うのか、実際に映像が見えるわけじゃないんだけど

 

分かるっていう方が正確かな

 

あ、こうなる、、、みたいな

 

なんとも不思議だけど、本当なんだからしょうがない

 

それが分かることが素晴らしいと言ってるわけじゃなくて、そのような状態にいるとなぜか孤独とか寂しさとか切迫感とかいわゆるマイナスの思いがやってこないってことなんだよな

 

つまり現時点での僕の結論はこうだ

 

片岡鶴太郎さんもそうかもしれないし、様々な隠遁生活で修行をした方々もそうかもしれないけど

 

彼らは孤独に「耐えた」わけじゃないのかもしれないってこと

 

孤独を「感じ」なかったのだと思う

 

だって孤独の辛さって結局自分の心が感じるものだから

 

自分の心が何かで満たされていたら孤独の辛さを感じないんじゃないかな

 

これはもしかするともしかするぞ