たまに何かで耳にするが、死ぬ前に食べられるとしたら何が一番食べたいかみたいな話がある
こんなこと現実にあるだろうか
誰が一体言い出したんだろう
一種の究極の選択のようでもある
つまりもう何もこの世で食べられないと分かっていて最後に求めるものは何ってことだから
病気で死期が迫っている人だとするとほぼ最後の食事はもちろん食欲どころか何も食べたくないと想像できる
かといって、死ぬと知らなければ最後の意味はないわけで
死ぬ直前の人がいきなりカツ丼食べたって話は聞いたことがない
となるとこの質問の意味は我々は日頃色々食しているが、本当に心から食べたいものは何かという命題になるのではないか
無人島に持っていけるのが一つとしたら何を持っていくかみたいな
もしその本当に心から食べたいものがあったとして、そのようなものならば毎日でも食べられるものなのか、それともまず絶対食べられないとんでもない贅沢なものなのか、はたまた、母親とか愛妻とか作ってくれる人に依存するものなのか
答える人の思考(嗜好)によってずいぶん変わるような気もする
例えば、最後だから母親の握ってくれたおにぎりと答える人もいるだろうし、妻の肉じゃがと答える人もいるかもしれない
これらは、食べ物へのこだわりよりも最後ゆえの愛するひとへの慕情と言っていいだろう
では、本当に食べたいものとして純粋に思考する人は、そのような慕情のない、もしくは乏しい人なのだろうか
記憶に残る食べ物というものは思い出と密接に関係しているような気もする
あの時、あの場所で誰々と何々を食べたとか
初めて行ったフランスのあの店で食べた◯◯がもう一度食べたいと思うかもしれないがそれは、その時の様々な記憶と密接に結びついているからであって、もう一度その店に行って同じものを食べて、あれ、こんな味だったっけ、シェフが変わったのかなとかって話はきっと多いだろう
いずれにしても、味覚は五感の一つであって、主体的かつ相対的なものであって絶対的なものではないから様々な要因で変化するのは間違いなさそうだ
芸能人格付けチェックなるものを見ればやはり一目瞭然だろう
極端に言えば死ぬ前に、これはあなたの愛する奥さんが作った肉じゃがだよと言われて供されれば、それがもしどこかの店のものだとしても、それは奥さんの肉じゃがになってしまうのではないだろうか
そしてそれでいいのだろう
さてそういうお前はどうなんだと問われれば実は答えに窮してしまう
何も思い浮かばないのだ
食への執着が乏しいせいかもしれない
その時腹が減っていたら何でも美味いだろうと浅薄にも考えてしまう
もう少し考えてみるとするかな