めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想について

久しぶりに瞑想について書こう

 

ずっと小説を書いていてこのブログを更新していなかったし

 

瞑想体験の良し悪しはその時の心身の状態で大きく左右される

 

もちろん良い方がいいのだが、不思議なこともある

 

瞑想体験において良いというのは、僕の個人的な意見ではあるが、いわゆる意識の「向こう側」へ行った時だ

 

多分、禅でいうところの「無」とか「三昧」だと思う

 

そこに意識が到達すると、全ての心身の何かが抜け落ちたように感じる

 

言葉では説明し難い

 

気分的には生まれ変わったようなものか

 

リフレッシュされ、爽快であり、活力や創造力が漲る

 

一方、良くない体験もある

 

ズーンと重く、雑念ばかりで、どうにもならない

 

面白いのは、瞑想の後だ

 

良くない体験でも、その後、不思議と元気が出たりする

 

瞑想で歪みとかストレスを解消できたからかもしれない

 

ところが良い体験の後に、時間を追ってだるく、重く、眠くなったりすることもある

 

これも多分、深い歪みやストレスが解消された反動のように思える

 

どっちも自分にとって必要なのだろうとは思う

 

先週あたりには、どこでうつったか、風邪のような症状が続いたのだが、その間の瞑想は、眠ってばかりだった

 

眠っても眠っても眠い

 

何かの調整がなされていたように今となっては思える

 

瞑想を続けて30年あまり

 

続けてきてよかったと心から思える

 

心身の不調を癒すだけではない

 

自分の小さな心が抱く幻想を意識下から遠ざけてしまう

 

人は根拠のない不安を抱える

 

その不安によって新たな問題だったりストレスを引き起こす

 

不安は必要ない

 

頭ではわかっていてもどうすることもできない

 

瞑想はその不安に感じる心を、雲が去って太陽が顔を覗かせるがごとく、明るく輝かせる

 

雲のことなど一切考えることもない

 

ただ明るく光り輝くのだ

 

もちろん明るく光り輝くことも意識してはいない

 

「無」だ

 

ただ充足している

 

足りないものなどない

 

欠けているものなどない

 

「無」とは、そういう状態だ

 

やはり瞑想は素晴らしい

 

僕達は生まれてずっと意識を外に向けてきた

 

それが当たり前だと思い込んでいる

 

意識を内側に向けてみると全く違う世界が見える

 

僕達は、外の世界を経験して内側に気づくようにできている

 

外側は、何もかも移ろいゆく変化する世界だ

 

そこは全てが変化で変化しないものは何もない

 

ところがその変化する外側に僕達は心の満足を見出そうとする

 

その満足はどんなものであれ、金であれ名誉であれ地位であれ物欲や性欲であれ

一過性に過ぎず儚いものだ

 

それに気づいたとき初めて内側に意識が向く

 

内側に「無」という絶対があると知る

 

「無」という絶対を知ると、外側の移ろいゆく儚い世界が、より楽しめるようになる

 

映画を楽しむと同じことだ

 

全てを変化でありプロセスと捉えるから事象に拘泥する必要はなくなる

 

全てを受け入れられるようになる

 

そう

 

全てを受け入れ自由になるというのはそういう意味だ

 

頭で受け入れよう、そうすれば自由になれるはずと思ってもそうはなれない

 

もっともっと自然なことだ

 

「知」なのだ

 

「無」という絶対を「知る」からこそ、外側の儚さを受け入れ、自由になれる

 

瞑想というのは、意識を内側に向ける行為(技術)であり、「無」を知ることであり

人生の外側にある変化を受け入れて自由になることだ