めいそうえっせい

色々と心のままに

自転車の記憶

 

 高校3年間は自転車で通学していた。

 どのくらいの距離だったか、片道20分くらいだから5、6キロといったところか。

 当時はサッカー部で脚力には自信があり、相当スピードは出ていたと思うので、もっと距離はあったかもしれない。

 その自転車は、いわゆるドロップハンドルの、何段だったか忘れた(多分10段だったと思う)が変速機付きで、今風の軽いモデルではなく、両手でヨイショと持ち上げなきゃならないくらいの、ど鉄の重い代物だった。

 その自転車は母が、知り合いから50円で譲り受けたものだった。

 僕は、高校入学祝いに自転車を買ってもらう約束を母と交わしていたが、手元に来たのがその自転車だった。

 2年後、弟の高校入学祝いも自転車だった。それは、新品で、その頃流行りの光が流れる方向指示器のついた人気のモデルだった。

 僕はそれに対して直接母に文句を言ったかどうか今となっては記憶が定かではない。ただ、あれから半世紀近くが経っても覚えているということは、よほど頭に来たのだろうと思う。

 あれは僕にとっての反面教師だ。

 あの出来事は、子供と簡単に口約束してはいけないし、もしもしてしまったなら、絶対に守らねばならない、そして、兄弟で差をつけてはいけないことを学ばせてくれた。

 僕はそれをずっと守っている。

 今も、三人の娘には平等に同じ額の小遣いをあげる。しかも同時に。別々にあげたりはしない。

 彼女らが幼い頃、サンタクロースのプレゼントをどうするか頭を悩ませた挙句、パソコンで印刷したサンタさん宛のポスターに、欲しいプレゼントを各自3つまで記入できるようにして、サンタさんが見えるようにと窓に貼った。

 その中から選んで渡せば公平性が保たれると思ったからだ。

 ただ彼女たちがそれをどう思っていたかは分からない。少なくとも、誰かを贔屓しているとか、自分は邪険にされているとか思ってなければそれで十分だ。

 

 実を言えば、その自転車自体、僕は気に入っていた。

 ドロップハンドルはあの頃まだ少なかった。

 その自転車で、ある日、死にかけた。

 長い下り道、横は国道で車がバンバン走っている。いつもの通学路だが、左ブレーキをかけたら、ワイヤーの断裂音がして、後方ブレーキが効かなくなった。実は、前方ブレーキはその前に壊れていた。

 止まれない。

 猛スピードで下りカーブを曲がって、その先のガードレールに意識的に突っ込んだ。それしか止められる手段はないと思ったからだった。

 もちろん僕は吹っ飛んだが、若かったのだろう、奇跡的にかすり傷程度で済み、自転車も大きな損傷はなかった。

 あれは、朝のことだったが、その後、効かないブレーキの自転車で、どうやって学校にたどり着き、また、帰って来たのか記憶がない。

 

 そんなある日、とんでもない奴が現れた。確か高校2年の最後の方だ。

 そいつを僕たち自転車通学仲間は「アカ」と呼んだ。

 相当マニアックな奴で、ペダルに足を引っ掛ける赤い輪っかがついていて、赤い皮の手袋をしていた。それに、見るからに片手でヒョイと持てそうな、いかにも軽そうな車体だった。多分変速機も15段とか21段とかだったに違いない。

 何しろ速い。

 川沿いの堤防の上を走るのだが、いつも後から来て抜いて行った。「アカ」は同級生だったが、他のクラスで、体育会系クラブでは見かけない、よく知らない奴だった。

 なぜ、「アカ」が急に現れたのか今もって定かではない。

 もしかすると、誕生日とか、何かのお祝いに、金持ちの親にねだって買ってもらったのかもしれないし、親戚の誰かが競輪選手でそのお古が回ってきたのかもしれない。

 ただ、僕の方が圧倒的に脚力では勝るはずなのに一度として勝てなかった。奴が抜いた瞬間にいつも思いっきり全力で追いかけるが、追い抜くどころか、追いつくことさえ叶わないのだ。

 走りが軽い。風のように飛ぶように疾っていく。

 当時、僕は人生最大の失恋をした後で、猛勉強を開始していた頃だったが、そんな僕をある女の子が好意をもってくれていた。

 僕は彼女と付き合いはしなかったが、デートには2度行った。

 一度は海で、もう一度はアリスのコンサートだった。ただそれだけだった。僕は勉強ばかりしていたし、3年でクラスが別になってその後は会うこともなかった。

 冬のある日、彼女が「アカ」に勝ってねと、手編みの手袋をくれた。それでもやっぱり「アカ」には勝てなかった。今思えば、車体の重量と変速機のもたらす違いは大きく、ママチャリとロードレーサーみたいなもので、脚力だけで勝てるはずもなかったのだろう。

 

それにしても、彼女に貰ったその手袋はどういうわけか、ずっといい匂いがしていた。多分一年以上も。

 あの匂いはなんだったのだろう。

匂いは今でも明瞭に思い出せるのに、あの自転車と手袋がどのようにして自分の元を去ったのかは不思議なことに全く思い出せない。