今朝の瞑想中にふいに感謝という文字が浮かんだ
還暦も過ぎてくると、何もないゆったりした生活が待っているなどと思ったら大違いで、体の不調や、カミさんとの関係の変化、親や子供の心配、お金の不安などその他諸々出てくると知った
仕事をしているときには思いも寄らなかったことばかり
多分その頃も多々あるにはあったのだろうが日々の忙しさもあって注意が向かなかったり考えが浮かばなかったのかもしれない
ある意味、余裕や時間ができたためでもあるのだろう
しかもやはり年齢のなせる技か、取り越し苦労が多くなったようにも思う
ああなったら、こうなったらとかね
これ、あんまり嬉しくないね
よく母親が「気が急く」という言い方をしていたのを思い出す
瞑想し始めると、そのような様々な気掛かりなことや心配事などが顔を覗かせる
今朝もそうだった
そのうち消え去るのはわかっているので放っておく
すると不意に感謝という言葉が浮かんだのだ
で、感謝に意識を向けた
するといつも体験する意識の向こう側への扉が開くように感じた
そして気づいた
感謝するという気持ちとか姿勢は、自分が足りているという意味だと
意識の向こう側は完全に足りているところだと確信しているので、そこへの扉が開くのは自分がそこに同調することだとわかったのだ
つまり瞑想中でなくとも、日頃、感謝するという気持ちや姿勢は、足りているところへの扉を開くのだ
足りていると思えば、欲しがらない
欲しがらなければ不安や心配もない
ああ、そういうことかと思った
足りているからこそ感謝できるのだと思いがちで、足りないのに感謝できないよと思えるのだが、ここがなんとなくポイントというかミソなんだ
足りないと思っているからこそ、何かを欲しがっている
何かが得られてもなお足りないと思う
この相対世界ではいつまで経っても足りることはない
感謝はそれを変える
矢印を逆向きに変えるのだ
感謝すれば足りていると思える
あの意識の向こう側である足りているところに行く
その瞬間、足りていないという意識から切り離されるのだ
ああ、足りていると思える
それがまた感謝の気持ちを呼び覚ます
不満を思ったり口に出す前にまず感謝してみようと思った