めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想の向こう側

瞑想の向こう側には何があるのだろう

 

瞑想していると、自分の意識している心を意識する

 

その意識が消えるというか、うまく表現できないが、ふっと向こう側に行く瞬間が訪れる

 

瞑想を始めた頃はよくわからなかったが、ずっと続けているせいか、その向こう側に行く瞬間が、つまりこっち側から向こう側へと移るプロセスみたいなものが滑らかになってきたように思える

 

以前は、向こう側に到達した意識は、いきなり到達していることに気づくことが多かった

 

今は、意識するこちら側の意識が薄れ、徐々に向こう側へと移りゆく意識が自分で意識できるようになってきている

 

境目がなくなっているのだろうか

 

意識が向こう側へ行くと、いわゆるフレッシュな状態になる

 

生まれ変わったかのような、あるいは、熟睡して目覚めた時のような

 

とはいえ何かが大きく変わったかと言えば全くそんなこともなく

 

ごく自然と言えば自然

 

三昧という言葉があって、これは書物によれば、至福の境地を表すのだそうだ

 

確かになんとか三昧と言えば、その愉しみを味わい尽くしている感じがする

 

ごくたまに瞑想の話をすると、その時間が苦痛ではないかと聞く人がいたりする

 

しかし不思議なことに全く苦痛ではない

 

それどころか瞑想しないとストレスが溜まるのだ

 

瞑想中はいろんな思いがやってきて、その思いがずっと消えない時もあれば、最初から意識の深いところに行き、先述したように、ごく楽に向こう側へと到達してしまう時もある

 

その時の体調とか悩み事とか些細なことに左右されるのかもしれない

 

修行僧が山の中や洞窟に篭って瞑想するというのは、周りの物事から遮断して、瞑想三昧の境地に浸るためだろうと思える

 

これは何を意味するか

 

もしかすると、あれはとんでもなく厳しい修行ではなくて、やっている本人にとってはとても楽しい?ことなのかもしれない

 

あの瞑想の向こう側にずっといられたらどんな感じなのだろう

 

あるいはあの向こう側をもっと意識できたらどうなのか

 

そんなことをつらつら思い巡らしていると、死に辿り着く

 

死ぬ時ってあんな感じなのだろうかと

 

意識が遠のいていって無になるのか、それともどこかに意識が向かうのか

 

意識が脳の生理現象であり、あくまで物理的なものであれば、死によって意識は閉ざされるのかもしれない

 

しかしながら、我々人間が生きているこのエネルギーの元そのものは、一体どこから来るのかと考えると些か不思議にも思える

 

単純な物理現象を超えているように感じる

 

僕には理屈や理論はわからなくてそう感じるだけだが

 

そしてそれは僕の心の奥底が正しいと言っている

 

つまり、意識する心は、死を迎えても、向こう側へと移りゆくのではないか

 

その時、自分という固有のアイデンティティが意識されるかどうか僕にはわからない

 

なぜなら向こう側へと行った瞬間は、自分を意識していないからだ

 

さらに瞑想を続けていくとその答えは得られるのだろうか