めいそうえっせい

色々と心のままに

依存心と帰依3

前回からの続きです

 

確かな記憶はないが、多分不眠症の時期は二ヶ月くらいは続いたと思う

 

いやもっとかもしれない

 

とにかく僕にとって幸運だったのは、そんな僕に気づきながらも何も言わなかった上司の存在だった

 

彼はただ見守ってくれていた

 

今はもうこの世にはいない

 

そんな頃、休日の昼間、いつものように畳の部屋で横になっていた

 

何しろ何もやる気はないし何もできない

 

今思えば妻も何も言わなかったが一体どう思っていたのだろう

 

彼女は彼女で家事と子育てで毎日が大変だったから気づかなかったのだろうか

 

横になっていてふと気づいた

 

頭と体が完全に切り離されていると感じたのだ

 

別々の物体だった

 

ああそれでなのかと僕は思った

 

そして何を考えたか家を出て本屋に向かった

 

そこで瞑想の本に出会った

 

瞑想を初めて数日も経たないうちに不眠症はよくなった

 

あれから30年以上が経つ

 

誰か、もしくは何かが僕を瞑想へと誘ってくれたように思っている

 

いやそれは僕自身だったかもしれない

 

そう思った時、依存心という言葉が蘇った

 

僕は何に依存してきたのか

 

もちろん他者である

 

では依存しないことはどういうことなのか

 

誰の力も借りず、たった一人で生き抜くことなのか

 

僕は白隠さんが大好きで、そのお師匠さんであるところの、正受庵の道鏡恵端師を深く尊敬している

 

恵端師は正受さんとして親しまれた禅僧だが、たった一人で、庵にこもって孤独な修行を続ける

 

とても僕には寂しくてできないと思う

 

やっぱり誰かに依存しているからだろうか

 

ではなぜ恵端師には可能なのだろうか

 

僕には他者ではなく自分の中にあるものに依存しているからではないかと思える

 

そしてそれを帰依と呼ぶのではないかと

 

真に依存すべきものに立ち帰る

 

依存すべきは他者ではなく自分の内側にある

 

そして真に帰依すれば、他者に依存する必要はなくなるのではないのか

 

それが一つの人間としての完成されたありようではないのか

 

もしそれが正しいなら、依存心自体悪いこととも言えないのではないか

 

他者に依存するからこそ、それに気づけるという意味で

 

僕は自己弁護をしているのだろうか

 

自立できないくせにそんな風に自分を庇っているだけなのか

 

いつか本当の答えを知りたいものである