めいそうえっせい

色々と心のままに

瞑想修行の日々

先日、瞑想の理論的側面を学ぶ講義の中で改めて感じたことがある

 

これは深遠な真理であると

 

今更かと問われると恥ずかしいがその通りだと言わざるを得ない

 

瞑想そのものは単なる技術に過ぎない

 

自分の内側に向かう技術だ

 

なぜ内側に向かうことが大切なのか

 

一言で言えば外ばかりに注意が向いているかだ

 

外に影響されてただ「反応して」生きている

 

これがほとんどの現代人の姿ではなかろうか

 

自分の内側に何も拠って立つものがない

 

誰かが言ったこと、書いたことに拠っている

 

それが全て悪いと言うのではない

 

批評批判するつもりはない

 

自分もそうだから

 

自分が果たしてどこに向かおうとしているのかに真に気付ける人は

少ない

 

自分の真実というやつだ

 

元々「〜道」がある

華道しかり、茶道しかり、柔道、空手道、剣道、弓道などなど

 

道とは何だろう

 

調べるといわゆる人の通る道以外に、道理、普遍的原則、宇宙の真理などがある

 

推察ではあるが、このような(〜道)をある程度のレベルにまで到達した人は

一瞬でも自分の内側にある真実に触れたことがあるだろう

 

華道であれば「よく見せたい、評価されたい」という欲望が目を曇らせる

いかに自分自身の純粋なものをそこに投影できるか

 

柔道なども相手に勝つことは己に克つことであると知るだろう

 

卑近な例で言えばゴルフなどで優勝やベットがかかっている時たかだか30センチ

のパットに緊張してしまい時には外してしまうのに似ている

 

それは優勝による名声や評価評判、賞金など得られるであろう外側に注意が向いて

いるからに他ならない

 

目の前のパットではなく

 

よくいうビギナーズラックなどは欲がない(恐れがない)故の結果であることは

もちろん論を俟たない

 

渋野日向子選手が昨年の全英に勝った。

もし次の機会に同じような最終パットが残ったらあれほどの見事なケレン味のない

パットを打ち切れるか

入るか入らないかではなく

 

藤井聡太棋士はとんでもなく凄い棋士

私は瞑想歴より古く将棋歴がある

と言っても指す方より見る方というか将棋指しが好きなのだが

 

数十年前にはユニークな棋士がたくさんおられた

戦後の名人といえば木村名人だが、その対抗馬に升田さんがいた

そしてその後長らく大山康晴さんが君臨し、中原さん、米長さん、加藤一二三さん

、そして谷川さん、さらに不世出の羽生善治さんと言った面々が続く

 

彼らは将棋界に一時代を築いた方々だが、芹沢さんや村山くんなどユニークな棋士

も多かった

 

何しろ無茶苦茶なのが将棋差しらしくていい

 

芹沢さんなどは昔巨泉のクイズダービーに出て人気を博す棋士だったが実は知る

人ぞ知る天才棋士だった

彼は自分が名人になるものだと信じていた

将棋の名人位というものは今より遥かに位置付けが重く(と思っている)将棋界

はもちろんのこと巷でも名人は将棋の神様が選ぶ、つまり人格品格力量全てに

優れていなければならないとされていた

 

それが木村から大山、中原、谷川へと続く流れだった

 

いつからかそういうものも薄れたのも事実ではある

 

芹沢は多彩な能力を持つ類稀な棋士ではあった

 

そしてある日、自分は名人にはなれないと悟る

その時彼はどうしようとしたか

毎日2升もの酒を飲んで自死しようとしたのだ

(つまるところそれはある意味実現することになるのだが)

 

なぜかこういうところに惹かれてしまう

 

横道に逸れてしまった

 

藤井7段は強い。恐ろしく強い。AI時代の申し子かもしれない

 

ただ今は純粋に将棋を指している(多分楽しんで)

 

5年後23歳、10年後28歳 どうなるのか

 

いつまで自分の内側にフォーカスし続けられるのだろうか

 

どこかで恐れや欲が出てしまうのだろうか

 

将棋は将棋道とは言わない

それだけ勝負に辛いのかもしれない

 

自分は真理に目覚めるために瞑想を続けている

 

勝ちも負けもない

 

あるのは自分の真実のみという世界

 

では自分とは何か

 

自分とはこの身体に縛られた有限な存在か

 

それとも